1786年、ハーシェルはウィンザー近郊スラウのクレーホールに移住した。この地で当時としては英国最大の口径48インチ(122センチ)の40フィート望遠鏡を自作し、さらに遠くの淡い星雲や惑星の観測をはじめた。この望遠鏡で1789年、土星の6番目と7番目の衛星「エンケラドス」と「ミマス」を発見したとされる。ただ、この望遠鏡は大きすぎて自動装置のない当時としては制御が難しかったらしく、天王星の衛星「チタニア」と「オベロン」や大部分の暗い接近重星の観測は愛用の20フィート望遠鏡で成し遂げたという。
ハーシェルは1788年にメアリー・ピットと結婚し、4年後に一子ジョン・フレデリック・ウィリアム・ハーシェルをもうける。十分な教育が受けられず独学で天文学を極めたハーシェルは、息子のジョンに大きな期待をかけた。その期待に違わず、ジョンはケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジを首席で卒業し、科学者になった。
彼は銀板写真術で有名だが、天文学でもケープタウンに大望遠鏡を建設し、高齢の父が果たせなかった南天の星々の観測を行い、多数の星雲星団を記載して父のカタログを完成させた。ハーシェルは晩年にナイトに叙せられるが、ジョンも王立天文学会会長を務め、彼の代でハーシェル家は従男爵に叙せられた。
健康な老年時代
ハーシェルは、青壮年期には昼と宵は音楽活動、夜は天体観測。有名になってからは、昼間は宮廷に伺候した後に天文学会や王立学会の仕事をこなし、晴れた夜は天体観測、曇った夜は執筆活動と、まさに慢性的な睡眠不足だった。だが、大きな病気をすることもなく、当時としては長寿の83歳まで健康に生きることができた。1792年スラウの自宅兼天文台には英国訪問中のハイドンが訪れ、親しく歓談した。そのときの英国滞在日記には、ハーシェルはたとえ来客中でも、晴れてさえいればいかに寒くても毎晩、数時間を観測に費やしていることが記されている。