■墓との出合い
大きな転機が訪れたのは1999年。週刊「アサヒグラフ」(朝日新聞社)で「日本縦断 墓物語」の連載が始まった。
写したのは歴史上の人物の墓。写楽(浮世絵師)、山頭火(俳人)、寺田寅彦(物理学者、文学者)といった著名人のほか、「隠れキリシタン」など、無名の人の墓も撮影した。
この連載はその後の作品づくりに深く影響しただけでなく、染谷さんの人生をも変えていく。
「ただ、写しているときは仕事だったので、自分の写真のことなんて1ミリも考えなかった。でも、そこで見た風景が自分のなかに、ちょっとずつたまっていったと思うんです。それがいまとどこかでつながっている」
連載は72週、2年弱続いたが、「西日本をひとまわりしたくらいで『アサヒグラフ』がなくなっちゃったんですよ」。
一方、たくさんの墓を訪れていくうちに、染谷さんは墓の民俗学的な側面に引かれていった。
「お墓のことを調べていたら、風葬に興味を持ったんです。岩陰とかに置かれた遺体がゆっくりと白骨化して、自然に帰っていく。それで、奄美や沖縄に行って、風葬の墓を撮影した」
それをまとめた作品「海礁の柩(かいしょうのひつぎ)」を03年に発表。しかし、満足のいく出来ではなかったという。
「人の生とか死みたいなものが感じられればと思って、白黒で墓を撮ったんですけれど、表現しきれなかった。それで、よりリアルなカラーで、生きている人もお墓も全部ごちゃ混ぜにして写したのが『ニライ』(10年)なんです。生というものが、死のなかに包み込まれている、という雰囲気を撮りたかった」
ニライとは沖縄の言葉で、「南の海の向こうにある別世界」「神様が住む場所」のこと。撮影場所は南西諸島から「台湾、フィリピン、インドネシアと、南へ下っていった」。
■「ほうたれ」の響き
12年、日本中を旅して写した作品「道の記」シリーズをスタート。「でも、あのころはまだ、生だの死だのというのを引きずっていましたね。胎児の写真や、子宮を摘出した女の人の写真があったり」。
「で、そういう死や生ではなく、ただ、どこかに行って写真を撮りたいな、と思って、いまの『艪』『ほうたれ』『六の舟』のシリーズが始まるんです」
ちなみに、「ほうたれ」とはカタクチイワシのこと。
「愛媛県の宇和島の近くで撮っていたとき、おじさんが『ほうたれ、食うか』と、声をかけてくれた。カタクチイワシの天日干しをコンビニの袋に入れて、『持っていきなさい』と。それを食べながら、次の町へ行った。言葉の響きもいいし。それでタイトルにした」