年末に帯状疱疹で入院、翌04年7月に「適応障害」と病名が公表された。その年と翌年の誕生日は短い文書が公表されただけで、以来、雅子さまは会見を開いていない。
06年、43歳のお誕生日には文書と写真が公表された。皇太子さま(当時)と愛子さまと一緒の家族写真で、雅子さまはカジュアルなジャケットに濃いグレーのパンツ姿。赤坂御用地での写真は紅葉が大きく写り、3人は小さめに写っていた。
■励ます気持ちの表れ
07年をはさみ、08年からはご家族3人お揃いの写真のみ、ということが11年まで続く。09年から、東宮御所でソファに座っての写真に。ちなみに07年以来、雅子さまも愛子さまも長い髪をおろしておでこを見せる“お揃いヘア”で、それは愛子さまが前髪を作った11年まで続いた。
そんなご家族写真の完成形は、16年のものだったと思う。53歳の雅子さまはドレープの入ったベージュのカーディガン、皇太子さま(当時)はキャメルのカーディガン、愛子さまはそれより少し薄いキャメルに赤いステッチの入ったカーディガン。3人ともインナーは白、トータルで“リンクコーデ”になっている。
この年、15歳の愛子さまは激しく痩せていた。「ダイエットだった」と後に報道されたが、この時は大いに驚かされた。だから完成度の高いリンクコーデは、ご両親2人が愛子さまを励ます気持ちの表れ。そう感じた。
翌17年6月、天皇陛下(当時)の退位特例法が成立した。12月、雅子さまの誕生日写真に二つ変化があった。一つは皇太子さま(当時)とお二人になったこと、もう一つはそれまでおろしていた長い髪を後ろでまとめたこと。「家族」でなく「天皇と皇后」、そして仕事モードへの切り替えだったと想像する。
■外務省時代に言及した
この時、雅子さまは光沢感のあるワインレッドのロングカーディガン。翌年、皇太子妃として最後の写真は白のボータイブラウスで、ブラウスは初めてだった。翌年、皇后としての初の写真がゴールドのスーツだったことはすでに書いた。華やかさのアップ=雅子さまの充実度のアップ。そう理解している。
今年の話に戻る。雅子さまが「変化」を意識していることは、公表された「ご感想」からも読み取ることができた。まずは20歳になった愛子さまの話から始まり、コロナ禍、東日本大震災10年、豪雨災害と話題が進んだところまでは従来通りだった。そこから気候変動、さらに眞鍋淑郎さんのノーベル賞受賞の話になったところで、思いもよらない文章に出合ったのだ。