その「復帰っ子」も今年50歳になった。同じ復帰っ子で、川田の友人でもある、お笑いコンビ「ハンサム」の金城博之は、「『復帰っ子』じゃなくて、もう『復帰おじさん』ですよね」と笑う。
「おじい、おばあが生き残ったのは奇跡的だと思いますけど、ぼくらが生きていることはラッキーで済まされることじゃなくて、申し訳ない気持ちになるねと川ちゃんと話してます。復帰っ子としてできることを、お互いに芸人として見つけようとしています」
「復帰っ子」の中には、勉強会を開いたり、戦後から復帰前までをよく知る識者から学んだりと、沖縄の将来を考えるために意識的に活動をしてきた者も少なくない。しかし、川田はこれまで「自分は復帰っ子」という自覚はあったというが、「芸人としてテレビに出て売れることだけを考えて生きてきて、とくに何もしてなかったんですよ」と話す。
そもそも家では、慰霊の日も手を合わせるぐらいで、戦争の話を多く語る家系でもなかった。
少し前に親戚が集まったときに母方の祖父の話を聞いたら、兵士として召集されて出征する前に、親戚に別れを言いに来たことを初めて知った。
「戦死だとは聞いてたんですが、遺骨などはなく、消息もわからないままです。出征前に訪ねてきたことも、それまで親戚も誰も言わなかったんですよ。ぼくが聞いたら教えてくれましたけど、これまでじっくり話を聞いたこともなかったんです」
そんな川田が、沖縄復帰50周年番組で号泣したのにはどんな理由があるのだろうか。
「ガレッジセール」は、ゴリが中学校の同級生だった川田を誘うかたちで1995年に結成した。同時に川田は沖縄から上京したが、その日常生活は「天然ボケ」ともいえる日々だった。
「東京に出てきて1、2年の頃、新宿で沖縄の言葉で話しかけられたんです。当然、信用するじゃないですか。そしたらキャバクラへ連れていかれて20万円ぼったくられました。ムカついてそいつを捜しにいったんですけど、もうそいつはいなくなってて。沖縄の人でも信用したらいかんなあと……ショックでしたね」
山手線に乗るときに手を挙げて停車させようとしたという逸話も残っている。沖縄には電車がなく、バスを利用するときに手を挙げて止める習慣があり、それが出てしまったのだと言う。
とにかく川田はネタの宝庫だった。100円ショップで「これいくらですか?」と店員に尋ねたり、コントの小道具で女性の下着が必要になり買いに行ったものの、川田だとバレてしまい、レジで声だけを変えて「これください」と言ってみたり。所属事務所が人間ドックの予定を入れていたのに、友だちと遊ぶ約束をしてしまい、当日になって病院へ「今日は具合が悪いので行けません」と電話したこともあった。