釣りとバイクが趣味。実家に戻ると、ほど近い海岸で蛸を狙う(撮影/関康隆)
釣りとバイクが趣味。実家に戻ると、ほど近い海岸で蛸を狙う(撮影/関康隆)
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 ガレッジセール、川田広樹。1972年、沖縄が本土へ復帰した。この年に生まれた子どもは「復帰っ子」と呼ばれ、沖縄を担う存在として期待される。復帰っ子でもある川田広樹は、復帰50年のこの年、沖縄戦の体験者の声を聞き、伝えなくてはならないと、初めて使命感が生まれた。忙しい合間を縫って、沖縄のおじい、おばあの元へ通い、その声を聞き記録する。今、何が川田を突き動かすのか。

【写真】番組収録をするガレッジセールの二人

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 今年6月に沖縄ローカルでオンエアされた沖縄復帰50年特別番組で、あるアクシデントが起きた。司会はガレッジセールのゴリがつとめ、相方の川田広樹(かわたひろき)(49)は「雛壇(ひなだん)」にパネリストのひとりとして座っていたが、番組中に川田が号泣したのだ。

 この特番は、沖縄が「日本」に復帰してからの50年間をクイズ形式で振り返る番組で、番組中に沖縄戦の映像が流れた。そのあと、ウクライナがロシアに軍事侵攻されている映像も流れ、ウクライナに接している国でウチナーンチュ(沖縄出身者)が、避難民の支援をしているということが紹介された。

 川田は沖縄戦の映像のあたりから涙を堪えていたが、ウクライナの映像になると声をあげて泣いた。その上、「何もしゃべれなくて……ごめんなさい」と番組中に謝る始末。収録後、川田は「恥ずかしいから、あそこはカットしてほしいなあ」と周囲に漏らしていたが、そのままノーカットでオンエアされた。

「芸人になって25年以上になりますが、コメントできないほど泣いてしまうなんて初めてのことでした。ウクライナで逃げまどう人たちの現実が、77年前の沖縄戦と被ってしまって……。助けてくれてありがとうと言っているウクライナのおばあさんを見たら、堪えきれなくなって、涙があふれて止まらなくなってしまったんです」

 川田は真顔で頭を掻(か)いた。

 第2次世界大戦後、連合国軍の統治下にあった日本は、1952年4月のサンフランシスコ講和条約発効で主権を回復した。しかし、沖縄、奄美群島、小笠原諸島は切り離されて米国の統治下に置かれた。沖縄返還協定が締結されたのが71年6月で、翌72年5月15日に、沖縄は本土復帰を果たした。この年、沖縄で生まれた子どもは約2万人。本土復帰の年に生まれた子どもを沖縄では「復帰っ子」と呼び、将来の沖縄を担う世代として、上の世代から折につけ期待されてきた。

■沖縄から上京してすぐ 同郷の人にだまされる

 ガレッジセールは2人とも「復帰っ子」である。ゴリは1972年5月生まれで、川田は1973年2月生まれ。川田は早生まれなので、ふたりは同学年になる。この学年を沖縄では「復帰っ子」として扱う。

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