今回の国葬で、「今」という時代を生きる私たちの見識が問われています。日本の戦後民主主義はアメリカに与えられた「アメリカン・デモクラシー」です。これは本来、民主主義の1つの形態にすぎず、本当はここから「アメリカン」を取らなきゃいけなかった。私たちが民主主義を本質的にどう理解し、この国を作っていくのかという議論へ進んでいかなければいけない。日本には明治初期に自由民権運動を率いた後藤象二郎や板垣退助、福沢諭吉をはじめ、かなり高度な民主主義の方向性を模索した時期もありました。そういう土壌があるのに、私たち国民は自分の頭で考えて進むことを拒否したまま、いまだにアメリカン・デモクラシーの枠にとどまっています。結局、日本の戦後民主主義は私たちの手で作り育てたものではなく、与えられたものをただ守る、という姿勢に終始してきたように思います。

いまの憲法は平和憲法ではありません。非軍事憲法だと私は考えています。これを本当の意味で平和憲法にするには絶え間ない平和への努力が必要です。そういう努力もしないで表面だけ「平和憲法」という美辞麗句で飾っても、若い世代には思考停止の上に据え置かれた「保守化したもの」としか映りません。安倍さんはそのような日本社会が欠落させてきたものを否定することで、内実を伴わない見せかけの斬新さをアピールするブームに乗っかっただけの政治家です。

私たちには今の時代に生きることと、歴史の中に生きる2つの役割があります。歴史の中に生きるというのは、先行世代の教訓を次世代に伝えていく役割です。私たちはこの努力を怠っていないか。次世代の人が私たちを見て、受け継ぐに値するものがどれくらいあると考えるでしょうか。今回の国葬は歴史の審判に耐えられないと考えています。

(構成/編集部・渡辺豪)

AERA 2022年9月26日号

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