岸田さんは状況の中でしか生きられない政治家です。自分なりの思想を掲げて集団を引っ張っていく、ということができない人です。そういう人物がリーダーを務める危険性は、状況を自分で作っていない分、無責任になることです。岸田さんは状況に対して常に受け身です。思想の裏打ちもなければ、立ち位置も明確ではない。だから状況に流される。この人は一体、何を考えているんだ、となる。国葬を決定した原点にあるのは、そういう岸田さん個人の特質だと思います。
もう一つ、言っておきたいのは靖国神社の思想との関連です。靖国神社というのは、全てをはしょって言えば、国家主義的な思想のもとで行う慰霊の社です。靖国神社が1年で最も注目を集める終戦記念日を前に、9月に行う国葬を岸田さんが事件後早々、7月に発表した背景には、この「靖国」の存在を意識した面があったからだ、と考えています。
安倍さん自身、戦後社会における靖国の思想を継いでいる人だと思います。そういう人物を国葬にするということは、岸田さんが間接的に8月15日に靖国神社に参拝するのと同様の効果を持ちます。つまり、岸田さんは安倍さんが持っていた保守の支持層に媚びへつらうことにより、自身の政治的基盤の強化につなげようとした。少なくともそうした潜在心理が岸田さんの中にあった、と私は見ています。銃撃事件が春先に起きていれば、果たして岸田さんはこんなに早く国葬の決定を急いだでしょうか。
自らの思想を持たない状況主義者が怖いのはそこなんです。戦後77年、日本はとうとう存在の核のない内閣を抱えるに至ったんだな、という感を強くしました。
さらにもう一つ、留意しないといけないのは、国葬と天皇の関係です。今回の国葬は「憲法上の象徴天皇の国事行為はどうあるべきか」という問題の本質に迫る局面でもあります。
天皇は内閣から国葬への出席を求められるでしょう。そのとき、天皇家が「こうした国葬の類には、どんな人の国葬であれ、距離を置きたい」という自由な意思を貫けるかといえば、そんなことはできない、と宮内庁は考えるでしょう。となると、どうなるか。天皇が出席するかどうかは、軽々に口をはさめませんが、天皇家の誰かが出席することになります。私はいま、宮中で相当なエネルギーを費やして議論と調整が行われているんじゃないか、と推察しています。こうした複雑な課題も含め、岸田さんはあまり深く考えずに国葬の実施を決めてしまったのではないでしょうか。