青山線の都電が消えてから59年を経て大変貌した赤坂見附交差点。画面左端に1985年に改築された弁慶橋と紀尾井町通りが写る。背景には白亜の東京ガーデンテラス紀尾井町の高層ビル群が佇立する。画面には見えないが、旧景の赤坂プリンスホテル旧館は画面手前の紀尾井レジデンスビルの右奥に移築され、東京プリンスクラシックハウスとして盛業している。(撮影/諸河久:2022年9月10日)
青山線の都電が消えてから59年を経て大変貌した赤坂見附交差点。画面左端に1985年に改築された弁慶橋と紀尾井町通りが写る。背景には白亜の東京ガーデンテラス紀尾井町の高層ビル群が佇立する。画面には見えないが、旧景の赤坂プリンスホテル旧館は画面手前の紀尾井レジデンスビルの右奥に移築され、東京プリンスクラシックハウスとして盛業している。(撮影/諸河久:2022年9月10日)

 次の写真が赤坂見附交差点の近景で、青山通りの渋滞緩和を目論んで建設された赤坂陸橋が頭上を覆っている。画面左端には1985年に改築された弁慶堀に架かる弁慶橋が写っており、 古風な擬宝珠が使われている。この擬宝珠が京都の五条大橋に似ているから「弁慶」橋といわれたのではない。江戸期の大工・弁慶小左衛門が神田藍染川に架橋し、名橋と呼ばれた弁慶橋に因んでいる。明治になって弁慶橋が不要となり、当時まだ橋がなかった当地に移築され、再度弁慶橋を名乗ったからだ。

 画面中央を東西に横断してスカイラインを二分してのが、都電青山線の早期撤去の原因となった首都高速道路3号線だ。旧景の撮影から20年後の1983年、「赤プリ」と呼ばれた赤坂プリンスホテルは旧画面右端に写る新館を40階建ての高層ホテルに建て替えた。折からのバブル期に呼応した「トレンディースポット」としてメディアに喧伝された。

 2011年に営業を終えた赤坂プリンスホテルは取り壊され、跡地に大型複合商業ビルとして建設されたのが写真の「東京ガーデンテラス紀尾井町」で、2016年に開業している。旧赤坂プリンスホテルは「ザ・プリンスギャラリー東京紀尾井町」として引き継がれている。前述の旧館は「赤坂プリンスクラシックハウス」として移築され、2011年には東京都の有形文化財に指定されている。

広大な「丘陵地」の変遷

赤坂見附停留所で乗降扱い中の3系統飯田橋行き都電。青山線を走る9系統浜町中の橋行き都電の車窓からのスナップショット。都電から降車した老女が足早に横断歩道を渡る。信号待ちするアメ車は1960年式のGM系オールズモビルだろう。(撮影/諸河久:1963年1月1日)
赤坂見附停留所で乗降扱い中の3系統飯田橋行き都電。青山線を走る9系統浜町中の橋行き都電の車窓からのスナップショット。都電から降車した老女が足早に横断歩道を渡る。信号待ちするアメ車は1960年式のGM系オールズモビルだろう。(撮影/諸河久:1963年1月1日)

 次の写真は9系統の都電車窓から写した溜池線赤坂見附停留所の一コマ。3系統飯田橋行きの都電から降車した老女とアメ車の組み合わせがコミカルだ。道路の背後には外濠の埋め立て地が続き、赤坂東急サービスステーションのガソリンスタンドが盛業していた。

 背景の広大な丘陵地は、明治期に閑院宮邸だった。戦後は駐留軍に接収され「ジェファーソン ハイツ」と呼ばれる米軍人用の宿舎に使用されたが、返還後の1961年に参議院議長公邸が建設された。余談であるが、歌舞伎のお芝居で有名な悪漢・河内山宗俊が、東叡山寛永寺の使僧に扮して大名屋敷に乗り込み、上州屋の娘浪路を取り戻した帰り際に「とんだところへ北村大膳」という台詞で使僧の正体がバレてしまう場所は、ここに所在した出雲松江藩松平出羽守の江戸上屋敷の玄関先という設定だった。

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近影にはかつて「軍艦パジャマ」とも呼ばれた…