1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は赤坂見附の交差点を都電が縦横に走っていた時代を回顧し、大変貌を遂げた現在の風景と今昔対比を試みた。
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赤坂見附は「江戸城三十六見附」の一つで防衛の要衝だった。ここには桝形の石垣と見附櫓門(やぐらもん)が設置され、大山街道(現青山通り)を往還する人々の見張り番所の機能を果たしていた。
赤坂見附の櫓門や石垣は明治期に入ると撤去されたが、赤坂見附坂と呼ばれる急峻な坂越えのため、荷車を後押しする「押し屋」と称する人足も存在した。
明治も後半に入った1904年、青山通りに東京市街鉄道による路面電車が走り始め、1906年の東京鉄道会社時代を経て、1911年から東京市電・青山線となった。いっぽう、赤坂見附の坂下で交差する外濠通りには東京電気鉄道による溜池線(通称外濠線)が1905年に敷設され、赤坂見附交差点は両線への乗客で賑わった。
東京オリンピックによる強制撤去
冒頭の写真は赤坂見附停留所を発車し、青山通りを平河町二丁目に向かう10系統須田町行きの都電。2018年10月13日配信の本欄では、赤坂見附から平河町に続く坂道の名称が不明で、読者からの教示を待つ旨を記述した。その後閲覧した東京都交通局工務部の資料によると、赤坂見附~平河町二丁目の坂は「赤坂見附坂」の記載があり、学生時代からの疑問が一気に氷解した。赤坂見附~平河町二丁目間389mのうち、270mの区間に最急68パーミルの勾配があることも確認できた。
赤坂見附坂を上下する9・10二系統の都電の姿は1963年9月30日を最後に見納めとなった。東京オリンピック関連の緊急工事である首都高速道路3号線の建設工事が進捗し、工事に支障をきたす都電・青山線/三宅坂~青山一丁目の軌道が半ば強制的に撤去され、9・10系統は存続したものの、迂回運転を余儀なくされたからだ。
画面手前の平面交差が3系統(品川駅前~飯田橋)の走る溜池線で、青山線撤去後も1967年12月の路線廃止まで赤坂見附交差点を走り続けた。
画面を観察すると都電の背景に弁慶堀と呼ばれる外濠があり、その背後のチューダー様式の洋館は1930年に竣工した李王家東京邸だった。戦後の1955年に開業した赤坂プリンスホテルの旧館として再興され、瀟洒な外観や内装で人気を博した。旧館の背後に聳える鉄塔は日本放送協会(NHK)千代田放送所の送信塔で、東京タワー竣工後も機能していた。写真の一帯を紀尾井町と呼ぶのは、紀州藩徳川家、尾張藩徳川家、近江彦根藩井伊家の屋敷が同じ町内にあったので、それぞれの一字をとって名付けられたからだ。