「君たちは出版社の人々を裏切った以上に、君たちの連載を待っていた少年たちも裏切ったんだ」と叱られた二人は死に物狂いで再起をはたす。

 マンガを描くことは孤独な作業だが、みんなが集まればそんなことはない、と、安孫子や藤本の他にも、石森章太郎や赤塚不二夫などもトキワ荘への入居をさそって、新漫画党を結党、宝焼酎をサイダーでわった「チューダー」で月に一度の例会をトキワ荘でひらいたのもテラさんだ。近くの中華料理店「松葉」でとったラーメンとともにチューダーで乾杯して「ンマーイ」と叫ぶシーンを覚えている読者も多いだろう。

 寺田自身は、安孫子や藤本、赤塚、石森よりも2歳から7歳年上なだけだったが、投稿マンガを主軸にしていた雑誌『漫画少年』の選者になっていたことから、兄貴分として慕われていた。少年サンデーは、1959年3月に創刊されるが、創刊時、手塚治虫とともに、柱となるマンガ家として「スポーツマン金太郎」を連載したりもしている。

 が、そのテラさんは、30代で自ら筆を折ってマンガ家を廃業してしまう。

 今回と次回続けて書くのは、テラさんの「早すぎる晩年」についての話だ。

「テラさんは、マンガが、どんどん変わっていくのに我慢がならなかった。テラさんにとってマンガは、少年のためにあるもので、お金とかセックスとかが描かれているマンガと自分のマンガが同載されることが許せなかったんです」

 そう語るのは、ラーメンの小池さんのモデルにもなった鈴木伸一だ。テラさんも含め当時トキワ荘に住んでいたマンガ家は、ほとんどが鬼籍に入り、最後の生き証人と言えるかもしれない。

 鈴木自身も、寺田にトキワ荘の敷金3万円を借りて入居している。寺田夫人は鈴木の縁で寺田と知り合った。

 今年、89歳となる鈴木は、マンガ家廃業以降の寺田のことを考えると、今でも切なくなる。

 鈴木によれば、寺田は少年サンデーの編集者に、寺田が「堕落」と考えるあるマンガの連載をやめるよう直談判したのだという。

次のページ