歴史をひもとけば、さまざまな人生が見えてくる。生きざまや言葉、残された逸話に胸打たれ、指針にする人は少なくない。AERA2023年1月23日号から。
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戦国武将・大谷吉継(よしつぐ)の墓は、岐阜県関ケ原町の山中にある。関ケ原の戦いで西軍についた吉継が布陣し、そして自害したと伝えられる場所の近傍(きんぼう)だ。吉継の軍は決して多くない手勢で藤堂高虎ら東軍と相対しつつ、寝返って背後から攻めかかってきた小早川秀秋を押し返す。しかし、配下にいた脇坂安治ら4将が東軍に内応して側面を突かれたことでついに壊滅、重臣・湯浅五助の介錯(かいしゃく)で自害した──。
文芸研究家のカジポン・マルコ・残月さんは20年ほど前、吉継の墓前に立った。
「お墓に手を合わせたとき、彼が本当にいたのだと実感しました。吉継の生きざまが単なる物語ではなくなり、吉継のように生きたいと自然に涙が出ました」
■茶を膿ごと飲み干した
吉継は「友情に殉じた武将」と言われる。慶長5(1600)年、石田三成から徳川家康打倒のために挙兵する決意を聞かされたとき、吉継は「勝機なく、無謀である」と3度、三成を諫めたという。だが、三成の固い決意に心動かされ、敗戦を予期しながらも西軍に加わった。
吉継と三成は年齢が近く、同郷、共に秀吉に仕えるなど共通点が多い。そして、それにとどまらない絆で結ばれていた。
吉継は病で容貌(ようぼう)が変質していたという。あるときの茶会で武将たちが茶の回し飲みをしていると、吉継の頬から膿が一滴、茶碗に落ちた。諸将はどよめき、吉継は茶碗を回せなかった。助け舟を出したのが三成。「喉が渇いて待ちきれん。早く回せ」と言って碗を受け取った三成は、それを一息に飲み干した。吉継は心打たれ、三成と深い友情で結ばれる。そしてそれが、関ケ原の決戦へとつながっていく。そんな逸話が残っている。
「墓前では『本当の友情を教えてくれてありがとう』と伝えました。なかなかそうできないけれど、吉継のように何よりも友情を大切にする人でありたいと思っています」
カジポンさんは偉人の墓参りをライフワークとし、100カ国、2500人以上の墓を巡礼してきた。なかでも100人以上の墓地を訪ねた戦国時代の人々から学ぶことは多いという。