ドリフのメンバーを演じた俳優陣も見事だった。彼らはドラマパートで役柄を演じるだけでなく、コントパートでは実際にコントをやらなければいけない。しかも、演じるのは日本中の誰もが知っているような「ドリフのコント」である。少しでもズレがあれば「なんか違う」と一蹴されてしまう恐れがある。
そんな中で、彼らは元の世界観を崩さずに、ドリフのメンバーという役柄としてコントを演じ切っていた。志村けん役の山田裕貴はもちろん、いかりや長介役の遠藤憲一や加藤茶役の勝地涼の再現度の高さには驚かされた。
この番組を見て改めて思ったのは、ドリフのコントはすでに「新しい古典」になっているんだな、ということだった。いわば、日本のお笑いの中に「ドリフのコント」という1つのジャンルがあり、それが確立した状態になっているということだ。
ドリフがやっていたようなスラップスティック(ドタバタ)の笑いというのは、最近の若手芸人にはそこまで受け継がれてはいない。今は「動きの笑い」よりも「言葉の笑い」の方が流行っているため、動きに特化した笑いだけを追求する芸人があまりいない。
だからこそ、ドリフのコントは今の時代に見ても古臭くなることがない。顔芸、変な声、変な歌、変な動きといったフィジカルに特化した笑いは、むしろ新鮮に面白く感じられる。「古典になった」というのは悪い意味ではなく、「古びないものになった」ということだ。
俳優がドリフのメンバーとして演じるコントがきちんと面白いものとして見られるというのは、ドリフが作った「笑いのフォーマット」がそれだけ強固なものであるということを意味する。一時代を築いたドリフの笑いは、今後も長く受け継がれる「笑いの文化遺産」となるだろう。(お笑い評論家・ラリー遠田)