残念ながらモスクワ五輪はボイコットで幻と消えたが、ロス、ソウルと2度の五輪に出場し、ボストンマラソンで日本人初の複数回制覇を成し遂げるなど、マラソン通算10勝の金字塔を打ち立てたのは、ご存じのとおりだ。
筆者は瀬古の引退レースとなった88年の千葉駅伝を取材する機会に恵まれたが、大会終了後も大多数のファンが立ち去ろうとしないため、主催者が混乱を回避すべく「瀬古選手はもう帰りました」と“ニセ放送”を行うほど。プレスルームで質問を受けていた瀬古が、「帰りました」の放送に一瞬きょとんとした表情を見せたことを懐かしく思い出す。
92年のバルセロナ五輪マラソンで8位入賞をはたし、91年に世界陸上マラソンで日本人初の金メダルを獲得した谷口浩美も、日体大時代は“復路のエース”だった。
83年の第59回大会、前年も6区で区間新をマークした山下りの達人は、この日も膝を柔らかく使ったすり足のフォームから、曲がりくねった下り坂をカーブに身を任せるような絶妙のコーナリングで、スイスイ快走。57分47秒という驚異的なタイムで自らの区間記録を更新した結果、2位以下との差が10分以上になり、7区の小田原中継所を待たずして事実上チームを総合Vに導いた。
「箱根の山下りは、ペース配分などありません。ブレーキをかけ過ぎずに走ることなんです」と“自分との勝負”を強調した谷口は、旭化成入社後にマラソン転向。バルセロナ五輪では、20キロ過ぎの給水地点でモロッコの選手に足を踏まれ、靴が脱げるアクシデントにもかかわらず、約30秒のロスから徐々に追い上げて8位入賞、「コケちゃいました」のコメントも流行語になった。
箱根駅伝では、06年からマラソン選手育成のため、山登りの5区が10区間最長距離に延長されたが(17年から再短縮)、期待ほど成果は上がらなかった。
市民ランナーの川内優輝も、学習院大時代に学連選抜の一員として2度6区を走っており、5区より6区出身者のほうが目立っているのが興味深い。