そうしたら、宮沢がこんなたとえ話をした。
日本人は自分の体に合った洋服をつくるのが下手なんだと。日本人が体に合った洋服をつくろうとすると、どうしても身の丈を超えようとしてしまう。だから(外部から)押し付けられた洋服に、体を合わせるのが安全だと。
要するに、日本が安全保障の主体性を持とうとすると軍部が突出し、五・一五事件や二・二六事件などが起き、それを抑え込もうとする政治家は殺された。政治が潰された。だからこそ戦後、米国があの憲法を押し付けた、という解釈だね。
さかのぼること吉田茂内閣のとき、英語がペラペラだった宮沢は、池田勇人蔵相(現財務相)の秘書官として1951年のサンフランシスコ講和会議に同行した。
米国にこんな憲法を押し付けられたら、日本はまともな軍隊を持てない。だから日本の安全保障には責任を持ってほしい──。日本側はこんな理屈で安全保障の“主体性”を放棄し、米国に依存することになった。
そして54年、自衛隊が創設された。憲法9条2項で「日本は戦力を持たない」「交戦権を持たない」と定めているが、自衛隊はどう見たって戦力。自衛隊と憲法は明らかに大矛盾していた。
ベトナム戦争下の65年、米軍による北爆が始まった。自衛隊もベトナムに行って戦え、といったムードが米国内に漂う。このときも首相だった佐藤栄作や宮沢は渡米し、次のような論法で米国を説いた。
日米同盟によって、本来であればベトナムについていかねばならない。けれども、あなたの国が難しい憲法を押し付けたから、行くに行けないじゃないですか──と。
佐藤首相がそう訴えたら米国も理解を示し、ベトナムに自衛隊を派遣しなくて済んだという。
戦後、米国は何度か戦争をしたけど、日本は全く巻き込まれていない。防衛費にほとんど金を使わず、経済に全面投入した。それで奇跡の高度経済成長を遂げた。
宮沢内閣が誕生する前、日本のリーダー候補は宮沢か、渡辺美智雄か、三塚博か、と言われていた。当時の自民党の実力者は金丸信。ただし金丸は、幹事長だった小沢がリーダーにふさわしいとして総理・総裁になるよう促したが、小沢は「まだ自分は早い」と応じたという。小沢が指名したこともあり、宮沢になった。