宮沢喜一(みやざわ・きいち)/1919年、東京都生まれ。大蔵官僚時代に池田勇人蔵相の秘書官としてサンフランシスコ講和会議に同行する。53年、参院選で初当選。62年に池田内閣で経済企画庁長官として初入閣し、以後通産相、外相、官房長官、蔵相などを歴任。「三角大福中」の次世代を担う政治家として、安倍晋太郎、竹下登らとともに「ニューリーダー」と呼ばれた。91年、首相に就任すると、PKO協力法を成立させたが、93年、自民党の分裂から総選挙で過半数割れとなり、退陣した。
宮沢喜一(みやざわ・きいち)/1919年、東京都生まれ。大蔵官僚時代に池田勇人蔵相の秘書官としてサンフランシスコ講和会議に同行する。53年、参院選で初当選。62年に池田内閣で経済企画庁長官として初入閣し、以後通産相、外相、官房長官、蔵相などを歴任。「三角大福中」の次世代を担う政治家として、安倍晋太郎、竹下登らとともに「ニューリーダー」と呼ばれた。91年、首相に就任すると、PKO協力法を成立させたが、93年、自民党の分裂から総選挙で過半数割れとなり、退陣した。
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 首相にズバッと切り込んできたジャーナリスト、田原総一朗氏の「通信簿」は今回、宮沢喜一氏。戦後政治の舞台裏も知り尽くす護憲派は、田原氏とのテレビでのやりとりで、皮肉にも「55年体制」最後の首相となった。(一部敬称略)

【田原氏による宮沢喜一氏の採点表はこちら】

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田原総一朗氏
田原総一朗氏

「どうしてもこの国会でやらないといけない。私はやりますから」

 1993年5月31日、テレビ朝日の特別番組「総理と語る」で、一対一で向き合った首相の宮沢喜一が、衆議院の選挙制度を改正すると断言した。

 当時の中選挙区制は、一つの選挙区で同じ政党の議員同士も争うため“金権政治”につながりやすい。だから僕は、小選挙区制に変えるべきだと考えていた。政界を巻き込んだリクルート事件などもあったから、選挙制度を改正して政治改革を断行すべきだと質問をぶつけた。

 そうしたら宮沢が「選挙制度を改正する」と言ったんだ。これ、テレビの本番ですよ。

 だけど、総理大臣が「改正する」と言っても、いつ改正するかはわからない。だから僕は「いつ改正するのか?」と詰め寄った。

 すると冒頭のように、開会中の通常国会で責任を持ってやると言い切った。

「本当か」

「私はウソは申しません」。そんなふうなやりとりをしたかと思う。

 ところが、選挙制度改正は自民党の中で反対が強かった。結局、改正はできなくて、責任を追及する野党が宮沢内閣の不信任案を出す。これに自民の小沢一郎や羽田孜らが賛成して、不信任案を可決。宮沢内閣が終わってしまう。

 だから、政権を潰したきっかけは僕にある。実はテレビ番組で権力者を厳しく問い詰めて、宮沢をはじめ海部俊樹、橋本龍太郎の3人の首相を失脚させたの。ただ、3人失脚させても政治があまり変わらなかったから、僕はテレビで厳しく問い詰める前に「本気でこういうことをやれ」とか、「こういうことだけはやるな」とか、政治家にはっきり言うようになった。

 その後に誕生した細川護熙内閣で選挙制度改正がなされたけれど、今思うと、選挙制度改正は失敗だったと思う。

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