いい絵を描こうと思わないことだ、と僕は常に自分に言い聞かせるようにしている。そのためにはキャンバスを前に、何もしないことだ。キャンバスを目の前にして、あえてキャンバスに描く絵のことを考えない。これはエサを与えられた犬が、「ヨシ!」と言われるまで、エサに手をつけない行為に似ている。何もしない、何も考えない、頭を空っぽにしたつもりでも白いキャンバスが頭の中に残像となって残っている。この状態はまだ無為になり切れていない。考えても、想像しても全く何も浮かばない状態に気持を持っていかないと、絵は描いちゃいけない。とにかく頭がチンパンジー状態になるまで、言葉のカケラも残してはいけない。言葉とアイデア(観念)がチラホラしている間は絶対絵は描いてはいけない。白紙、白痴状態になるまで無為無事を通すことができて初めて画家は画家になる。

 何かを知っているという状態はまだまだダメ。何も知らない、アホであることを知ることができて初めて画家になれる。何も知らないということを知るのは最高である。知らないということを知らないのは病気である。その病気を病気として認識するから、その病気にならないのである。だから、この病気を病むということはない。だけどエライ人は、インテリは何も知らないということを知ることができない。画家はインテリを超えなければシンの画家になれない。つまり何も知らないということを知るから素晴らしいということになる。

 ああ、シンドーと思って読んでおられると思いますが、画家は本当のシンの本当にならないと画家にならないのです。昨日描いた絵は、画家の足元にも及ばない、いわゆる世間いっぱんに「いいんじゃない」という程度の絵しか描けなかったのです。だから機嫌が悪く、今週の「シン・老人」のエッセイが書けなくて、その結果書いたのがこのエッセイですが、それは完全な無為になり切れていなかったためです。

 担編の鮎川さんに、「書けない」とコールしたら、色々とアイデアを提案していただきましたが、どれもこれも書きにくいテーマばかりです。「俗受けする絵と、そうじゃない絵について」など、難しいテーマです。その内気分が乗れば、と思いますが、僕にとっては臨済禅の公案みたいで、答があってないような課題です。だから俗受けしようが、しまいが、そんなもんどうでもいいんじゃないですか、そんなわずらわしい問題に関わらないことです。ホットキナサイ、というのが、まあ、さしずめ僕の回答ということになるんですかね。

横尾忠則(よこお・ただのり)/1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2011年度朝日賞。15年世界文化賞。20年東京都名誉都民顕彰

週刊朝日  2022年2月11日号

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