当事者の声は切実だった。ある人は、幼い頃から父と母との関係が悪かったということを語った。成人してから両親が離婚したが「父の面倒はみなくていい、本当の父じゃないから」と母に言われたことをきっかけに、自分がAIDで出生したことを知った。そうと知った瞬間に、ぎこちない母と父の会話や、過去に味わった違和感の点と点が線になるように今に結びついたという。
AIDで出生した全ての人が遺伝的な父親を特定したいと思っているわけではない。それでも、私が聞いた当事者の方々たちは、「自分がモノではないということを確認したい」という思いを強く持っていた。カタログから選ばれて買われてきた遺伝子情報ではなく、尊厳をもった命であるという実感を持ちたいという切実だ。またAIDで出生した人たちが、遺伝的疾患などのリスクを知る権利を奪われてしまっていることも、問題とされている。日本では、子どもの知る権利が一切認められていないからだ。一方、ニュージーランドなど先進国の一部では、子どもの知る権利が優先されており、精子提供者は将来、子どもがその権利を行使する可能性があることを理解しなければならないとされている。日本のスタンダードはまた、世界から遅れつつあり、そして常に現実は法律のずっと先をいきながら、多くの人の人生を巻き込み、時には深く傷つける。
……というような「子どもの権利」から考えたときに、今回の事件はどのように捉えればいいのだろうか。そもそもSNSで精子提供を受けるという状況は、日本の法律では想定されておらず、さらにそこで生まれた子どもの知る権利などというものははなから、親自身も考えていないことだろう。この事件を「どの立場」から考えればよいのだろう。そもそも、SNSで今も続く母親への激しいバッシングは、どういうことなのだろうか。「子どもの知る権利が奪われている」ことへのバッシングであれば、一昨年に政府にすべきだったろう。「京都大学じゃなきゃだめだ」という女性に対する怒りだとしたら、「京都大学です」とうそをついて精子提供した男性側はいったい何がしたかったのか。いったい皆、何に怒っているのだろうか。激しくモヤモヤしていたところ、20代の女性にこの事件についてどう思う?と聞いたのだが、その彼女が一言でこう言い切ったのだった。