【3】いまはほとんどない死球乱闘事件はこうして勃発した

 死球から乱闘事件に発展するのが極端に減ったのは、中畑清・代理監督で日本が銅メダルを獲得した2004年のアテネ五輪以降だ。なぜなら初めて日本代表全員がプロ選手で結成されたからだ。それまであまり他チームとの交流がなかったのが、自主トレなどでも交流するようになって、死球に端を発した乱闘事件が減ったというわけだ。

 ピッチャーというのは正直で、投げるゾーンに最後、目で「ライン付け」をします。つまり投げる目標を必ず見るんです。ピッチャーの性(さが)でしょうね。

 私たちは春のキャンプのときから、ピッチャーの目を見ながら「アウトコースだな」「インコースだな」とジャッジの訓練をします。ある程度、コースが分かっていると、ジャッジしやすいからです。

 ピッチャーが最終的に見るところはキャッチャーのミットですから、普通は目線が下に行くんです。それが、バッターを狙いに(?)行くときは、アゴが上がるんですね。本当に狙ったかどうかは証明できませんが、バッターが怒って乱闘事件になるというのはそういう理由からでしょう。

 1994年5月、神宮球場。2回表、ヤクルトの西村龍次投手が巨人の村田真一選手に頭部直撃のデッドボールを与え、村田選手が担架で退場。3回裏、巨人の木田優夫投手が、打席に入った西村投手の尻にぶつけた。7回表、今度は西村投手がグラッデン選手の顔面付近にボールを投じた。怒ったグラッデン選手が、中西捕手に左アッパー。大乱闘に発展した。これをきっかけに「頭部・顔面死球は、投手は即退場」となりました。

 同じ94年の6月に広島の佐々岡真司投手のすっぽ抜けたスローカーブが、巨人のコトー選手の頭部にコツンと当たった。コトー選手は苦笑しながら一塁に歩き、佐々岡投手は「危険球退場」となりました。「さすがにこれはないだろう」となってルールが改正されました。故意か否かは関係なく、頭部付近に「速いボール」が当たれば、自動的に退場です。スピードは何キロ以上という明確な基準があるわけではなく、球審の判断です。

 当時はデッドボールに端を発した乱闘劇が多かった。私はまだ2軍の審判で、神宮球場に見学に行っていて、ヤクルト―巨人の乱闘を生で見ていました。審判の先輩方に、「絶対当てっこになる」雰囲気があるから、それをつかんでおきなさい。乱闘後の処理の仕方を覚えなさいという教えを受けました。
当時は「やじ」もすごかったですよ。ダグアウトから、あからさまに「当てろ!」「分かってんだろうな」「お前、ただで帰れると思うなよ」。そういう会話が試合中に平気でいっぱい飛びかっていました。

 そういう「やじ」を聞いた場合には試合を止めて「警告試合」にすることが95年以降は徹底されたのです。(構成/新條雅紀)

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