その小島と同じく1998年に2ケタ14得点を挙げたのが、浦和の俊足FW大柴健二だ。豊富な運動量で前線を走り回り、小野伸二やベギリスタインからのパスでDFラインの裏へ抜け出すと、そのままスピードに乗ったドリブルからゴールに流し込むスタイルでゴールを量産。岡野雅行との「野人2トップ」で相手DF陣の脅威となった。しかし、翌1999年は2得点に終わり、チームはJ2降格。2001年はC大阪で9得点を挙げたが、その活躍も長くは続かず、横浜FCに移籍した2003年の7月に29歳で現役引退。結果的に「旬」の時期は短くなってしまったが、“速さ”だけでなく“強さ”もあり、長髪をなびかせながら貪欲にゴールを狙う姿は多くのサポーターの目に焼き付いている。

 横浜フリューゲルスで4年、清水で9年間プレーした久保山由清の活躍も印象的だ。優れたアジリティと得点感覚で、消滅したフリューゲルス最後の試合となった天皇杯決勝でゴールを決めて優勝に貢献。そして清水移籍1年目の1999年には、安永聡太郎との「ヤスキヨ・コンビ」で2ケタ12得点をマークしてステージ優勝の原動力となった。上背はなかったが、ゴール前にタイミング良く飛び込み、2001年まで自身がゴールを決めるとチームが負けない「不敗神話」(17試合)も作った。膝の怪我もあって1999年以外はすべてシーズン5得点以下に終わるなどストライカーとしての「旬」は実質1年のみだったが、31歳まで現役を続けて“エスパルス愛”を貫いた。

 市立船橋高校のエースとして名を馳せたカレン・ロバートも、ストライカーとしての「旬」が短かった選手だと言える。豊富な運動量に加えて、シュート、ドリブル、パスと“何でもできた”エレガントな万能FW。プロ入り前から平山相太とともに北京五輪世代のトップを走り、磐田に入団して2年目の2005年にリーグ戦31試合出場で13得点をマークして新人王に選ばれる活躍を見せた。しかし、FWとしてのエゴや強引さが不足し、ストライカーとして最も重要な得点力を磨き上げることができず。翌年以降は定位置争いに敗れた上に自らの怪我もあって成績が下降し、20代後半からはオランダ、タイ、韓国など海外リーグを渡り歩き、日本国内での存在感を失っていった。だが、一時的にでも「大きな夢」を抱かせたことは確かで、外見とは裏腹に、泥臭いプレーのできるガッツ溢れる選手だった。

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“浪速のアンリ”と呼ばれた選手は?