ミョーさんには、それが外国人への制圧を正当化するための常套手段に思えたという。収容施設には監視カメラも設置されているが、これまでその映像は明るみに出なかった。ただ、21年3月、スリランカ人女性のウィシュマ・サンダマリさん(当時33)が収容中に死亡した事件を機に、少しずつ映像などの物証が出てくるようになり、入管の在り方が問われるようになってきた。
「日本社会で、ふつうに出会う日本人はみんな優しい。でも、入管の中はどうしてあんなにひどいんだろう。考えても答えが出ない。日本は労働力が足りないから外国から労働者を入れようとしているのに、すでに日本にいる外国人には、ビザを与えない。真面目に生きようとしているだけなのに……」
13年1月、ミョーさんは「仮放免者」として牛久から出所した。だがあくまで「仮放免」であり、在留資格がないという扱いは変わらない。就労は許可されず、移動の自由も制限される。
ミョーさんが移動できるのは、東京、神奈川、埼玉の3都県のみ。所在を証明するために、ミャンマーの軍事クーデターへの反対活動をしている様子を撮影、印刷して、写真にある自分の顔にマル印と場所などを記入して、2カ月半ごとに入管に提出しなければならないという。
「移動の理由を、『民主化活動のため』と書いただけでは許可してもらえない。ちゃんと証拠も見せないといけないんです。もしミャンマーでクーデターがなかったら、『活動のため』という理由も通らない」
■ロヒンギャ大虐殺で家族はバングラデシュに避難
17年、ミョーさんの出身地であるミャンマー西部のラカイン州では、国軍の掃討作戦によってロヒンギャの虐殺が起きていた。9000人以上が殺害され、74万人以上ものロヒンギャが隣国バングラデシュに逃げて難民になった。ミョーさんの家族は、18年にバングラデシュに避難していた。
自分名義の携帯電話を契約することができないミョーさんは、周囲の手を借りながらやっとの思いで弟とフェイスブックでつながった。弟と話をすると「もう手遅れだよ」と泣いていた。ミョーさんの父親は、がんに侵されていたのだ。
「お父さんは、元気なときだけビデオ通話に出てくれた。でも、わかるんですよ。痩せてきて、顔色が悪くなっているのが見えるから。本当につらかった……」