民主化活動を続けたミョーさんは、警察当局に計4回拘束された。
4回目に拘束される直前の夜――ミョーさんを含む22人の民主化活動メンバーは喫茶店で集会を開いていた。そこに国軍と警察がトラック4台で乗り込んできた。
「動くな、頭を下に向けて上を向くな!」
銃口を突きつけられ、トラックに乗せられた。それまでは警察署への連行だったが、このときは、刑務所に直行だった。
「ミャンマーの刑務所は、すごく汚い。食事は1日1食で、おかずはない。硬く炊いた米に塩とお湯をかけて出される。石みたいな米で食べられないようなもの」
夜になると3人1組で尋問部屋に連れていかれ、そこで全裸にされ、こん棒で打たれた。国軍からは「なぜ軍の反対活動をするのか」「誰の指示なのか」と拷問された。
14日間の拷問の末、国軍はメンバーの親たちに連絡してワイロを要求。22人のうち7人が解放されることになった。そのとき、ミョーさんも解放された。
「親は民主化活動を止めませんでした。気をつけてやりなさいと、応援してくれていた。父は、自分の息子が間違っていることをしているわけではないと、わかってくれていたから……」
ただ、拘束されるたびにワイロを要求され、家計は苦しくなっていた。国軍に目をつけられたことで、「もう海外に逃げるしかない」と決心し、ミョーさんは06年に親戚のいる日本を目指した。
■日本に来て知った「難民」の現実
ミャンマーでは1982年、軍事政権下で国籍法が改正され、135の先住民族にはミャンマー国籍が与えられた。先住民族は、第1次英緬(えいめん)戦争が始まる1824年より前に住んでいた民族とされた。そこにロヒンギャは含まれないとされ、先住民族の枠組みから除外されてきた(注1)。
それゆえ、ロヒンギャであるミョーさんには国籍がない。日本へ渡ろうにも通常ルートではパスポートを発行することができず、密航ブローカーを利用して出国せざるを得なかった。当時、ブローカーに払うパスポートの作成代は日本円で10万~15万円。他にも、短期滞在のビザ代や航空券代などの費用が必要だった。