「空港にも軍がいるから、ブローカーと一緒に行って、通してもらえるように事前にワイロを払った」
ワイロを渡しても計画の途中で国軍に捕まるかもしれない。空港を突破してミャンマーを出国できても、日本に到着したときに入国できるのか。不安と緊張でいっぱいだった。
日本に到着し、入国審査を通過したときは、「もう家族を苦しめることがなくなるんだ」と安堵した。ミャンマーに残してきた家族を、いつか安全な日本に呼び寄せて平穏に暮らせる日が来ることを願っていた。
だが、「現実は違った」とミョーさんは肩を落とす。
「日本は国連で難民を受け入れると発表していたのに……。ここに来てわかったことは、難民は全然認められないということ」
2006年8月に短期滞在ビザで入国してから約1週間後、東京入国管理局に出向いて難民申請をした。そして、役所で外国人登録証と、3カ月働ける「特定活動」の在留資格を得た。在留資格は、3カ月ごとに役所に申請していたが、11年ごろからは申請先が入管に変わったという。
12年、難民申請の1回目の審査結果が出た。入管からは「難民に該当しない」と、却下された。「なぜか」と理由を問うと、入管から「理由を知りたいなら裁判をしてください」という答えが返ってきた。
「異議申し立てをしたら、それもダメだという結果が出て、収容された」
■入管職員の「常套手段」
12年1月から東京入国管理局に3カ月、茨城県牛久市にある東日本入国管理センターに9カ月、計1年間収容された。
牛久の収容施設には、外国人から「チケット」と呼ばれる入管の担当者がいたという。「チケット」は外国人を国に帰らせる手続きをする担当で、月2回の頻度で外国人に対して「あなたはいつ国に帰るの?」「あなたのビザは下りないよ」「日本は難民申請を認めていないから、あなたもわかるでしょ。だから、早く国に帰りなさい」と詰め寄っていたという。
「その言い方は、心を痛めつけるようだった。こっちが落ち込むようなことを言い続けて、外国人の口から『国に帰ります』と言わせようとしていた。それで、結構、他の外国人はキレて、その場でけんかになってしまうから、暴力は頻繁にあった。(担当者は)あたかも外国人が悪いかのように仕向けて、手を出してくるのを待っている。そして、7人くらいの職員がパーッと入ってきて、外国人を縛って、別の部屋に連れていく」