ロシアに侵攻されたウクライナから国外に逃れた難民が500万人を超えた。岸田文雄首相は16日、ウクライナからの避難民受け入れを踏まえ、紛争地からの「準難民」制度の創設を検討していると明らかにした。だが条約上は「難民」に当たらないという姿勢は崩しておらず、難民認定のハードルは依然として高い。2020年の日本の難民認定率はわずか1.2%。ウクライナに限らず、日本で難民に認められる日を待ち続けている外国人が大勢いる。入管施設における死亡事件なども問題になるなか、祖国に帰りたくても帰ることのできない当事者たちは、どのような思いでいるのか。「前編」ではミャンマーの少数民族ロヒンギャの男性のケースを紹介する。
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「これはミャンマーで民主化活動をやっていたときにできた傷。右手で刀を持って、左手でガードするから体の左側に傷が多い。この傷は一生消えない」
ミャンマー西部、ラカイン州出身のミョーチョーチョーさん(36)。ミャンマー軍が迫害の対象としてきた、イスラム系少数民族のロヒンギャである。2006年に祖国を逃れ、日本にたどり着いた。日本で難民申請をしたが、16年たった今でも難民とは認められず、在留資格のない状態が続いている。
ミョーさんが2歳のとき、ミャンマー国軍がロヒンギャの村々を襲撃してきた。一家で親戚のいる最大都市・ヤンゴンへ逃げた。ミャンマーでは仏教徒が約9割を占め、キリスト教徒やイスラム教徒は少数派だ。都会にまぎれて暮らしていたが、顔立ちからしてイスラム教徒であることは、周囲から一目瞭然だったという。
「ミャンマー人は仏教系のアジア顔が9割。イスラム教徒はインド寄りの顔が多いので、私がイスラム教徒であることは隠せない。さらに、イスラム教徒の中でもロヒンギャは仲間外れにされる。だから、ヤンゴンにいたときは、ロヒンギャだとは名乗らなかった」
■警察当局から受けた「拷問」
2004年、18歳だったミョーさんは、周囲の若者と同じようにミャンマーの民主化活動に参加した。刀を握って、武力でデモを鎮圧しようとする警察や治安部隊と対峙した。その時にできた傷は、冒頭で語ったように「一生消えない傷」となり、今もミョーさんの左腕には深く刻まれた無数の切り傷の痕が残っている。