「でも、『あなたは文学はど素人だし、そういうことは望まないんだけど』と先生はおっしゃって、勝手にきれいなイメージを妄想されていたのかもしれません。先生は、51歳で出家されて性愛の部分を封印された時に、翼を得て、もっと自由に解き放たれて、恋愛を描けるようになったのかもしれません。それが最後の方に存分に発揮され、先生の中に失われていない感情が実を結んだという感じはしますね」

「朝の9時11分、寂庵の馬場さんからショートメールが届いた。『今朝お亡くなりになられました。残念』」(2021年11月9日の項、本書より)

 寂聴さんが亡くなった日の記述。淡々とした文面が、かえって、深い惻隠の情をにじませる。中村監督は11月9日には京都に駆けつけなかったという。

「東京で番組制作をしていたからです。知らせを聞き、わかりました、ということで、哀しみに浸る間もなく、仕事が現在進行形で続いていたので、あとは仕事をしていました。やっぱり、これが先生だったからかなあ。先生は、仕事が一番大事という人だったから。仕事を休んで具合の悪い母親を介護していたという友人に対して幻滅したともおっしゃっていたんですよね。男は、親の死に目に会えなくても仕事をしなくちゃだめだろうって。先生だったら同じことがあっても仕事をしていたのではないかと思います。目の前にあることをちゃんと仕上げてから、お通夜、告別式に行く、と淡々と考えていましたね」

 2022年2月13日の項ではこんな場面も出てくる。

「それは映画制作について、ぼくを強く叱咤(しった)する言葉だった。『裕さんは私をもっと撮ってお金にする気はないの? 臨終が撮りたいなら撮れるように言っておくよ。私はもう死んでしまうんだから平気よ』」

「臨終の場面は撮っていませんし、撮る気もなかった。今、撮影しなくてよかったな、と思っています。そういう映像は残ったら非常に厄介なものになっていたでしょうね。簡単に消せないし、僕だけのものではないという気もする」

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「撮ってはいけない映像がある」