「撮影を許されても、正視できなかったかもしれない。亡くなったことを表現するのに、先生の臨終の瞬間は必要なのかどうかっていうことを考えると、議論の余地がある。映像の記録というのは、一つの言語的な意味もあるわけで、ご家族や親しいスタッフ越しに撮るのか、彼らを差し置いて一番手前で撮るのか。本当に美しいと感じられる映像になるのか。カメラの位置をどこにするのかというだけで意味が変わってくる。世の中には撮ってはいけない映像や残してはいけない記録というのがあると思う」

 寂聴さんが亡くなったという事実と向き合うことをあえて避けたようにも見える。その人は生き続けている、と思いなすことができるからだ。

「それはあるかもしれません。カメラを持たずにお通夜に行った時、居間に遺体が寝かされていて棺の中に、近づいていくけれど、僕は近づいてみなかった。近づきたくなかった。見に行く理由、必要性が僕にはないというか、認めたくないというのもどこかにあったかもしれないですが、そんなロマンチックなものではなく、単純に見るのがいやだった。アップで亡きがらも見ていない。棺を送り出すときも、色とりどりの赤や黄色の薔薇の花を敷き詰めて、最後に先生が作った『白道』というお酒を花の上からかけて、『裕さんもかけて』といわれたんですけど、『そんなにかけたら燃えすぎちゃいますよ、棺桶が』といなして、しなかったんです」

「いまだに『先生から今日は電話がかかってこないな』という風になるのは、先生が亡くなったという事実を自分で認めるような、頭に焼き付くような行為をしていないからかもしれません」

「撮影日記」からも、映画自体からも、中村監督の立ち位置はまさに「当事者」だ。

「作家の沢木耕太郎さんが言うように『同じ馬車に乗ってしばらく走って、やがて降りる』という、同乗させてもらう感じがありました。今回はドキュメンタリーとしては異端かもしれませんが、僕はドキュメンタリーも基本的には主観の立場で撮るものだと思う。見やすくなり、説得力を増すのであれば、監督が自らカメラの前に出て行ってもいいんじゃないかな。今回は、寂聴先生だから、ああいう風にしか関われなかったですね。僕自身の私小説的な内容になりました」

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「少年少女のファンタジーの一面」