フィギュアスケート男子の羽生結弦が7月19日、記者会見でプロ転向を表明した。引退の言葉は使わず、これからも挑戦を続けていく「決意」を述べた。AERA 2022年8月1日号の記事を紹介する。
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自らが「決意表明」と題した会見に現れた27歳の羽生結弦は、清らかな笑みをたたえていた。北京五輪から5カ月。マイクを握ると、声を絞り出すように語りだした。「まだまだ未熟な自分ですけれど……」の言葉のあと、大きく息を吸い、続ける。
「プロのアスリートとしてスケートを続けていくことを決意いたしました」
珍しく言葉をかみ、苦笑いする。「プロ」と「アスリート」という二つの言葉に、彼の生き方のすべてが込められていた。
小さな頃は、とにかく野心の塊のような少年だった。大切にしてきたのは、自分の心を素直にさらけ出すこと。
「良い演技をするのが目標、なんて謙遜する選手が多いけど、完璧な演技で負けたら屈辱的でしょ。僕は勝ちたい」
潔くそう言い切る。若き武者は闘争心をあらわにして、2010年にジュニアの世界王者へと駆け上がった。
「壁」という言葉を多用するようになったのは、シニアに上がった15歳の頃からだ。
「僕の目の前にはたくさんの壁があります。最初の壁が4回転トーループ。最後のほうにパトリック・チャン選手(カナダ)がいます。チャンという壁を越えれば、そこが世界の頂点ですからね」
東日本大震災が転機
最後の壁を世界の頂点と位置づけ、虎視眈々(こしたんたん)と狙い続けた。
大きな転機は、16歳で経験した東日本大震災。「被災地のスケーター」として大きなモノを背負うと、言動からやんちゃさが消えた。アスリートの自分と被災者の自分とが葛藤した。重圧をはね返したのは、17歳で出場したフランス・ニースでの12年世界選手権。フリーの演技中に雄たけびを上げ、渾身(こんしん)の滑りで銅メダルをつかんだ。
「被災地のために滑ろうと思っていたんですが、それは違う、僕は支えられている立場なんだと気づいたんです。応援を受け止めて演技することが恩返しになる。やっと自分のなかで震災を乗り越えられました」
あの日の覚醒は、羽生自身だけでなく、フィギュアスケートの概念を変えた。これはエンターテインメントではなく、戦いの場なのだ、ということを。
19歳で迎えた14年ソチ五輪は、新たな戦い方を見せた。がむしゃらにチャンへ挑むのではなく、五輪シーズン中での直接対決のたびに、新たな課題を得て、戦略的に抜き去った。