Aさんは中卒。有名高校を卒業し、銀行で働いていた被告にとって、親族からのこの言葉はプライドを大きく傷つけるものだった。北九州の父は「誰も祝福しないような結婚はやめるべきだ」と声を荒らげ、母は泣いて引き留めた。「気が弱く、親族の会社でアルバイト程度しか給料がない」というAさんに被告は同情し、「自分が幸せにしてあげなければ」と結婚に踏み切った。

 Aさんは親族の経営する運送会社で働き、ミカンを栽培するなどして生計を立てていた。被告はAさんの実家近くで生活を始め、子ども2人をもうけたが、近所にはAさんの親族がおり、被告に言わせれば「箸の上げ下げまで見られるような息の詰まる毎日」。ここから逃げ出したいとの思いをいつも抱いていた。

 そんなとき、被告はAさんに、自宅の敷地内でシャツにプリントをする工場を始めたいと持ちかける。親族の会社で生計を得る暮らしから、少しでも独立したかったからだ。だが中国産の安価な製品が出回るようになると経営は厳しくなり、借金が膨らんでいく。

 Aさんは1994年、50代半ばで死亡し、生命保険金はすべて借金返済にあてられた。カネの苦労が絶えず、被告はこの頃から周囲に借金を繰り返しては投資に手を出し、失敗を重ねていたようだ。

 北九州の両親を訪ね、援助を求めたこともある。「100万、200万のケタじゃない。2千万円はあったと思う」と話すほどの金額だった。「両親はずっと結婚に反対したのに、いまでも申し訳ない思いや。私が財産の全部をとってしまった」と被告は涙ながらに振り返った。母は後に自ら命を絶ったという。被告が結婚相談所に登録したのはそんなタイミングだった。Aさんの死亡から4年が過ぎていた。

 ここから車を次々と乗り換えていくかのような「後妻業」が始まる。その後も3度にわたって結婚を繰り返すが、夫や将来を約束した男性らは立て続けに死亡していった。裁判で認定されたのは3件の殺人罪と1件の強盗殺人未遂罪。被害者は4人ということになっているが、それはあくまで裁判ができる証拠がそろった事件だけだ。

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