「ユージンさんが袋だたきにされて負傷したのは72年1月7日。あの入浴シーンはその少し前の12月下旬に撮影している。つまり時系列をひっくり返している」
しかし、桑原さんはそれを否定しない。
「壮絶な悲壮感がドラマチックでいいと思いました。だから、この映画はエンターテインメントとは言いませんが、ドキュメンタリー風のストーリーとして見たほうがいい」
■病院の撮影で苦労したユージン
ユージンさんが水俣病について知ったのは桑原さんの作品との出合いがきっかけだった。
「1970年に写真学校の後輩、元村和彦君がぼくの『水俣病』(三一書房)という写真集を持ってニューヨークに行ったんです。それをユージンさんが見て、関心を持ったと聞きました。2冊目の写真集『水俣病1960~1970』(朝日新聞社)も送った。それでユージンさんはかなり情報を得て、水俣を訪れるわけです。来日すると、『会いたい』と連絡があって、アイリーンさんといっしょに来られました」(桑原さん)
桑原さんはあの入浴シーンを撮影する3週間ほど前にもウイスキーを土産に水俣のユージンさん宅を訪ねている。
「市立病院に入院する患者の撮影では非常に苦労されていました。行政側はユージンさんを訴訟派と自主交渉派に取材の拠点を置いた『あっちの人』と認識していたようで、協力が得られなかった。アイリーンさんから頼まれて院長に相談したんですが、『難しかぁ』と、にべもなかった。そんなわけで、病院内での撮影は大臣訪問時の報道陣としての取材に限られたようです」(同)
■この映画で何かが変われば
今回、市が指摘するように、この映画は史実に即したドキュメンタリーではない。水俣病の研究者からもさまざまな意見がある。
それについて、前出の麻生さんはこう語る。
「いろいろな意見が出て、議論が生まれる。それがこの映画のほんとうの意義ではないでしょうか。メンバーも『忘れたいと、口を閉じてしまってはダメだめじゃないか』と言う。この映画が何かが変わるきっかけになるのだったら、それはすごいことだと思います。地元には複雑な背景がありますが、いろいろな立場の人に見てほしいです」
(AERA dot.編集部・米倉昭仁)