最初、ジャガイモは観賞用だった。花を愛でたのである。ジャガイモはスペイン人が野蛮人扱いしていたアンデスの先住民の大好物だったため、気位が高いヨーロッパ人は下品な食べ物とした。動物と貧民の食べ物とされたのである。
それでも十七世紀半ばになるとジャガイモに対する別の見方が出てきた。
一六六二年にイギリス・サマセット州のある農場経営者は、「ジャガイモがあれば飢饉のときにこの国を救うことができるでしょう」とロンドンの王立協会に文書で提案した。ジャガイモは高い生産力を持ち、収穫部分が地下にあるため冷害を受けにくく、生育が百日足らずで凶作に強い。
ヨーロッパではまず食料不足が目立ったアイルランドで広く利用された。その後、アイルランドから北アメリカへ伝えられ、一七一八年から動物の飼料として栽培されると、一八〇〇年頃には裕福な人々も食べるようになり、とくにアイルランドでは主食となった。
プロイセン(ドイツ)では、十八世紀にフリードリッヒ大王(二世)が、積極的にジャガイモをつくらせた。拒否する農民には耳と鼻を切り落とすと脅してまで栽培させたという。
フランスでは、一七七一年にある学会が、飢饉のときにコムギに代わる食料を発見した人に多額の賞金を与えると発表した。農学者アントワーヌ=オーギュスタン・パルマンティエ(一七三七~一八一三)はジャガイモを提案した。
パルマンティエはジャガイモの普及のためにさまざまな計略をめぐらしたという話がある。王妃マリー・アントワネットは、ある日の夜会で髪にパルマンティエから贈られたジャガイモの花を飾った。すると、パリ中がジャガイモという物珍しい植物の噂でもちきりになった。
しかもパルマンティエはジャガイモが育つあいだ、王の承認を得て、畑に番兵を立てて見張らせたので、それを見た人々は栽培している作物が余程貴重なものだと思い、盗み出したという。見事な宣伝戦略である。
ジャガイモを収穫した後、彼は多数の有名人を招いてジャガイモ尽くしの料理でもてなす宴会を開いた。客のなかには化学者のアントワーヌ・ラボアジェ、アメリカの政治家で科学者のベンジャミン・フランクリン(一七〇六~一七九〇)もいた。こうして多くの人がジャガイモ党になったのだ。
パルマンティエは、ジャガイモに毒がふくまれていないこと、また、栽培の方法や利用法について記した本を出版した。ルイ一四世は彼に感謝して、「貴下が貧民のためのパンを発見したことに対して、フランスは今後当分貴下に感謝するだろう」と述べた。
こうしてジャガイモはヨーロッパ全土に普及していった。他方、極端に依存したことによる悲劇があった。アイルランドで一八四六~一八四七年にかけて始まった飢饉で、七五万~一〇〇万人が餓死し、一〇〇万人以上が国を出てアメリカやオーストラリアに渡っていった。ジャガイモが目に見えないジャガイモエキビョウキンに感染したことによる大凶作が原因だ。
それでもジャガイモは、十八世紀以降のヨーロッパの人口増大に大いに貢献したといえる。日本へは十六世紀末の戦国時代に、ジャワ(ジャガタラ)から来たオランダ人によって伝えられた。ジャガイモ(ジャガタライモ)の名の由来はここにある。
(※本原稿は『世界史は化学でできている』からの抜粋です)
左巻健男(さまき・たけお)東京大学非常勤講師
元法政大学生命科学部環境応用化学科教授
『理科の探検(RikaTan)』編集長。専門は理科教育、科学コミュニケーション。一九四九年生まれ。千葉大学教育学部理科専攻(物理化学研究室)を卒業後、東京学芸大学大学院教育学研究科理科教育専攻(物理化学講座)を修了。中学校理科教科書(新しい科学)編集委員・執筆者。大学で教鞭を執りつつ、精力的に理科教室や講演会の講師を務める。おもな著書に、『面白くて眠れなくなる化学』(PHP)、『よくわかる元素図鑑』(田中陵二氏との共著、PHP)、『新しい高校化学の教科書』(講談社ブルーバックス)などがある。