筆者が「お名残り撮影」に三宅坂界隈を訪れたのは、夏の熱気が過ぎ去り彼岸の好天に恵まれた9月24日のことだった。本連載の「永田町・平河町界隈の都電」でも記述したが、当時隼町交差点の南西角に所在した「東京消防庁・本庁舎」屋上から写したのが最初のカットだ。すでに拡幅予定の青山通り(国道246号線)沿道の建造物はセットバックを終えており、首都高速4号線三宅坂ジャンクション建設工事で廃止予定の青山線の電車道は板張り道路に変貌していた。
平河町二丁目から58.5パーミルの駒井坂を下ってきた9系統浜町中ノ橋行きの都電が眼下を過ぎ去るシーンを撮影。内堀端の三宅坂交差点を遠望すると、半蔵門から走ってきた10系統渋谷駅前行きが三宅坂停留所に近接していた。
東京市街鉄道時代の1904年に敷設された伝統の路線は、開業60年を迎えることなく、この翌週に消えていった。
内堀端を三宅坂に向かう都電と議事堂前停留所
次のカットは、風光明媚な内堀端を三宅坂に走り去る11系統新宿駅前行きの都電。半蔵門線の桜田門から半蔵門にかけて、夏季の都電車窓は満々と水をたたえた内堀からの涼風が心地よかった。都電の進行方向の曲線区間を三宅坂のSカーブと呼んでいたが、その右側の土手下には「柳の井」と呼ばれた井戸があり、画面左端にあった彦根藩井伊家上屋敷表門前の「桜の井」と共に名水と呼ばれていた。
小説家・岡本綺堂は1937年に上梓した随筆「御堀端三題」の文中で、1890年頃の内堀通りの見聞を記述しており、要約すると以下のようになる。
『当時、桜田門門外から半蔵門に続く道筋は、現在の電車道の1/3くらいの狭い道幅で、三宅坂への上り坂は爪先立つくらい急峻だった。坂下には軽子と呼ばれる立ちン坊が屯(たむろ)しており、下町から四谷麹町方面に向かう荷車の後押し労賃で一日の生計を立てていた。
陸軍の日比谷練兵場の跡地に日比谷公園の造園工事が始まった1902年頃に狭隘な道筋は拡幅された。翌1903年6月に我が国初の洋式庭園である日比谷公園が開園。11月の東京市街鉄道半蔵門線の開業により路面電車が走り始め、堀端の長閑な風情は霧散した』