軽快なアメリカンスタイルの神戸市電300型は、低床式に改造したブラッシュ21E型単台車を装備していた。吉田町一丁目(撮影/諸河久:1968年4月2日)
軽快なアメリカンスタイルの神戸市電300型は、低床式に改造したブラッシュ21E型単台車を装備していた。吉田町一丁目(撮影/諸河久:1968年4月2日)

 1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回も引き続き「単車」と呼ばれた四輪で走る路面電車の話題だ。筆者は1960年代後半の学生時代、高価だったカラーポジフィルムを携行して各地の路面電車を訪ね歩いている。今回は函館、横浜、岐阜の続編として神戸、岡山、高知で活躍した忘れ得ぬ単車たちを紹介しよう

【50年以上前の神戸や岡山、高知港をバックに走る光景など、当時の貴重な写真はこちら】

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 地下鉄と違い、路面電車の魅力は街並みを観察しながらあちこちに移動できること。明治の開港以来、海外の文化を織り交ぜながら美しい街並みを形成した神戸にとって、路面電車の存在は大きかった。

 冒頭のカットが、カラーポジフィルムで記録した神戸市交通局(以下神戸市電)の300型単車だ。1968年春、35mm判のコダック・エクタクロームX(ISO64)を携行した市電ロケの一コマだ。同型はアメリカンスタイルで神戸の街に溶け込んだ人気の車両。1966年から始まった路線縮小や大阪型ボギー車も健在な状況から、市内を走る単車のカラー撮影は諦めていた矢先のハプニングだった。吉田町一丁目停留所で突然300型単車が眼前に現れた。朝の通勤時間帯に応援仕業に入ったと推察され、系統番号を掲示しない姿を捉えた幸運な一瞬だった。

 この354号は300型―Aと呼ばれる車型だった。1932年に交通局工場で自重9.5トン、定員60(28)名(カッコ内は座席定員)の半鋼製車体を新製。A車と呼ばれた木造高床式単車が装備したラジアル式ブラッシュ21E型単台車からラジアル装置を撤去、低床式に改造した軸距3050mmの台車が流用されており、エアーブレーキが装備されていた。
10系統平野行きに充当されたスマートな400型低床式単車。300型よりも早く淘汰され、神戸市内から姿を消した。裁判所前(撮影/諸河久:1964年2月10日)

10系統平野行きに充当されたスマートな400型低床式単車。300型よりも早く淘汰され、神戸市内から姿を消した。裁判所前(撮影/諸河久:1964年2月10日)

西の単車天国・神戸市電

 次のカットが300型単車よりも洗練された車体を持つ400型低床式単車だ。最初の訪問時に辛うじて撮影した一コマで、当時はカラー撮影が叶わなかったので、モノクローム作品を掲載する。写真の408号は旧411型から戦後改番された18両が残存したうちの一両だった。1932年に交通局工場で自重9.5トン、定員56(26)名の半鋼製車体を新製。D・F車と呼ばれた木造低床式単車が装備した軸距2590mmのブリル21E型単台車を流用し、エアーブレーキ装備だった。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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高知の港の前を走る美しい路面電車