岡山駅前を発車して清輝橋に向かう岡山電軌100型低床式単車。背後では山陽新幹線の高架工事が進捗していた。岡山駅前~西川(にしがわ/現・西川緑道公園)(撮影/諸河久:1968年5月3日)
岡山駅前を発車して清輝橋に向かう岡山電軌100型低床式単車。背後では山陽新幹線の高架工事が進捗していた。岡山駅前~西川(にしがわ/現・西川緑道公園)(撮影/諸河久:1968年5月3日)

 東の横浜市電に対して、西の「単車天国」といわれた神戸市電では、1960年代に入っても軽快なアメリカンスタイルの300型、400型の2形式74両の低床式単車が在籍して、頻繁に市内を走っていた。「単車天国」に黄昏が訪れたのは、大阪型と呼ばれる大阪市電の中古ボギー車が導入された1964年だった。1966年の再訪時、18両在籍した400型は全滅しており、石屋川の車庫で残存していた予備役の300型にカメラを向けている。

岡山や高知で活躍した単車たち

 岡山電気軌道(以下岡山電軌)は1912年の開業以来、半世紀以上も単車だけで運行されてきた稀有な路面電車で「単車天国」は岡山電軌に相応しい愛称だった。ボギー車の導入は1966年から始まったが、それまでは4形式29両の単車が在籍していた。

 岡山電軌が秋田市交通局を始めとする各都市からボギー車を積極的に導入した結果、1970年代初頭に「単車天国」は瓦解してしまった。

 写真は岡山駅前を発車して清輝橋に向かう岡山電軌の100型低床式単車。写真後方には岡山駅前を交互に発車する東山行きの100型が発車を待っている。背景の国鉄岡山駅では1972年に開業が予定されていた山陽新幹線の高架工事が始まっていた。

 写真の106号は自社工場で1950年に鋼体化改造され、台車はブリル21E型に類似した日立21E型低床式単台車を流用した。自重7.7トン、定員42(16)名で、当初ブレーキは手用だったが、後年エアーブレーキに改造された。鋼体化前は日本車輛で1928年に製造された旧106号低床式単車で、乗降扉を持つ木造車体だった。

 余談であるが、岡山電軌は写真のような古い車軸を錘に使った自社製の「石津式パンタグラフ」を開発し、独特の外観を醸し出している。
黒潮香る桟橋通五丁目停留所で発車を待つ土佐電鉄300型高床式単車。「金太郎の腹掛け塗装」は1950年代の都電6000型を彷彿とさせてくれた。(撮影/諸河久:1968年5月2日)

黒潮香る桟橋通五丁目停留所で発車を待つ土佐電鉄300型高床式単車。「金太郎の腹掛け塗装」は1950年代の都電6000型を彷彿とさせてくれた。(撮影/諸河久:1968年5月2日)

 最後のカットが、カラーポジフィルムで撮影した高知市内を走る土佐電気鉄道(以下土佐電鉄/現・とさでん交通)の300型高床式単車。黒潮香る桟橋通五丁目停留所で高知駅前行きが発車待ちのシーンを狙った。画面の背景はフェリーや観光遊覧船が発着する高知港だ。

 300型は1904年の開業以来使われてきた木造単車を、1953年から1955年にかけて自社若松町工場で鋼体化改造して誕生した。この324号は、1909年製の旧35号の電気機器やブリル21E型高床式単台車を半鋼製車体に流用して1955年に登場。自重9.3トン、定員50(20)名。単台車の担いバネをコイルバネとオイルダンパの併用に改造して乗り心地の改善を図っており、空気ブレーキ装置も付加された。車体の形状は1952年に新造された200型ボギー車を模倣している。

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都電6000型と同系の外観