私もあらためて「天地聲聞」を目にすると、竹内さんの風景写真の原点を見る思いがした。同名の写真集(出版芸術社)のあとがきにはこう書かれている。
<古代の人々は、この自然に何を見、何を感じとったのであろう。荒ぶる神々か、豊穣をもたらすやさしい神か……。そんな思いを抱きながらシャッターを切る>
さらに、竹内さんはこうも言っている。
<僕のはどこでもいいんです、特定の風景じゃなくて。どこでもそういうキラッと光る瞬間があり、それを引き出すには35ミリが的確ということです>(同)
どんなきっかけで風景と出合おうと、それを作品にしてしまう貪欲さ
誤解を恐れずに言えば、竹内さんは撮影地にまったく頓着しない人だった。琴線に触れる風景であれば、それが「裏の庭でも」よかった。
そんな場所で撮る人はまずいない。私が昔、竹内さんの桜撮影に同行した際、満開の花を前にシャッターを切っていても、周囲にほかの人の姿を見ることはめったになかった。
<(大昔に)農民が田んぼを耕しながらふと見上げてみると、目の前の桜が満開だった。あっ、桜ってこんないいもんだったんだ、というものを写真で引き出したい>(同、カッコ内は筆者)
竹内さんいわく、<大型カメラによる今までの風景写真というのは、特定の景観があって、景観を写し変える作業だった>(同)。
その一方で、日本の風景写真を表現のレベルにまで押し上げた前田真三、岩宮武二、堀内初太郎、緑川洋一らの作品を明確に意識していた。
<自分自身の感情や思想のこもった風景を、35ミリを使って撮れないものかと模索をしていた>(同)
展示作品の出だしは、<夏の北海道取材の帰りに東北上空で出会った雲。(中略)運良く乗り合わせた飛行機がこのような雄大な雲の中を通過してくれたのである>(同)。
どんなきっかけで風景と出合おうと、それを作品にしてしまう貪欲さ。そこに竹内さんのすごさを感じる。
今後、財団の活動の柱として写真教育に力を入れるのであれば、撮影だけでなく、座学にも力を入れてほしいと思う。風景以外のさまざまな作品を見ることで、写真を見る目を鍛える。そこから新しい風景写真が生まれてくる。そう願っている。
(文・アサヒカメラ 米倉昭仁)
【MEMO】竹内敏信写真展「天地聲聞 春夏編」
竹内敏信記念館・TAギャラリー 4月1日~4月28日