写真家・北井一夫さんの作品展「村へ、そして村へ」が4月1日から東京・六本木のフジフイルム スクエア 写真歴史博物館で開催される。北井さんに聞いた。
「村へ」「そして村へ」は、1974年から「アサヒカメラ」に3年半にわたって掲載された人気連載。今回の展示作品はすべて当時に引き伸ばされたビンテージプリント。
北井さんは連載を通じて過疎化が進みつつあった全国各地の農村を訪ね歩き、そこに暮らす人々と風景を写しとった。
「村に残っているのはおばあさんと孫。両親夫婦は出稼ぎに。決まってそうだった。60年代に過疎化が始まって、70年代は古いものがどんどん壊されていったけれど、まだかろうじて残っていた。その一方で日本の近代化、工業化がぐーんと進んでいく。その境が『三里塚(成田)空港』の建設だったと思う」
76年、北井さんはこの「村へ」で第1回木村伊兵衛写真賞を受賞するのだが、話を聞いて、興味深かったのは、連載が始まるまでの経緯だ。特に成田空港建設反対派を撮影した「三里塚」によって、北井さんの写真家人生は大きく切り開かれていく。
「木村さんの演説のおかげでぼくの評価がバーンと上がっちゃった」
72年、北井さんは写真集『三里塚』(のら社)で日本写真協会新人賞を受賞。記念パーティーでの木村伊兵衛の祝辞は「大演説だった」と言う。北井さんによると、壇上で木村はこう語った。
「自分たちはいつも決定的瞬間を考えて写真を撮ってきた。人のしぐさのちょっとした瞬間、ふだんは見えないような瞬間、それを写すことで写真の時間を表そうとしてきた。けれど、北井さんの写真にはまったく特殊な瞬間がない。なんか、でれーとしていて、お茶を飲んでいたり、ただ、こっちを向いていたりするだけで自分が考えていた写真の瞬間とはまったく違う。けれど、それが日常の長い時間を感じさせる写真になっている」
――その後の北井さんの作品にも当てはまる、実に的を射たコメントですね。
「それを聞いたみんなはもうびっくりしちゃって。木村さんの演説のおかげでぼくの評価がバーンと上がっちゃった。木村さんは江戸っ子で、オヤジみたいな印象があったけれど、たいへんなインテリだな、と思ったね」
もともと「三里塚」は、朝日新聞社の「アサヒグラフ」で発表されたものだった。そこには雑誌の売り上げを伸ばすため、反対派を内部から写して誌面に載せたいという中村豊編集長の思惑があった。しかし、写真部員が中に潜り込んで撮ることはできない。そこで、白羽の矢が立てられたのが学生運動を撮影していた北井さんだった。
緊張感が漂う場面もあるが、どこか牧歌的な空気感の漂う「三里塚」の実像を写した写真は評判となり、思わぬところから声がかかった。同誌で「流れ雲旅」を連載していた漫画家のつげ義春である。
「この『三里塚』の人がいいって、ご指名だったの。そのころぼくがいちばん尊敬していたのはつげ義春だったから、『えっ』と思った」