「日本銀行前」の停留所看板の下には通称「三越裏」の広告板が掲示されていた。都電の右横で三代目「トヨペットコロナ」が信号待ちしている。エアコンなどなかった時代の三角窓やホワイトリボンのタイヤが懐かしい。日本銀行前(撮影/諸河久:1967年9月19日)
「日本銀行前」の停留所看板の下には通称「三越裏」の広告板が掲示されていた。都電の右横で三代目「トヨペットコロナ」が信号待ちしている。エアコンなどなかった時代の三角窓やホワイトリボンのタイヤが懐かしい。日本銀行前(撮影/諸河久:1967年9月19日)
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 1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は中央区本石町の外堀通りを走る都電と、その沿道に所在する日本銀行本店や常盤橋を紹介しよう。

【54年が経過した現在の光景は? いまの同じ場所や当時の貴重な写真はこちら(計5枚)】

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 ヨーロッパでは今も各国でトラム(路面電車)が活躍している。艶やかな街並みにトラムがとけ込むその光景は、とかく古くて新しい。

 冒頭の写真は、そんな欧州の街並みを彷彿とさせる一枚だ。背後の瀟洒な洋風建築が日本銀行本店の本館。撮影時はちょうどランチタイムで、手前の外堀通りと交差する江戸桜通りは多くのサラリーマンで賑わっていた。半世紀以上前の、美しい東京の「姿」だ。

 当時、神田橋から17系統数寄屋橋行きに乗ると、次の鎌倉河岸を過ぎたあたりから国鉄中央線・山手線(現JR)などが走る大きなガードが視界に入ってくる。国鉄ガードを潜ると新常盤橋の交差点で、江戸通りに敷設された室町線と交差した先が新常盤橋停留所だ。次の日本銀行前停留所まで僅か200mの距離だが、すぐに明治期の建造物と判る石造りの日本銀行本店が左手に見えてくる。

昭和42年6月の路線図。日本橋界隈(資料提供/東京都交通局)
昭和42年6月の路線図。日本橋界隈(資料提供/東京都交通局)

辰野金吾による洋風建築の傑作

 明治期の開業当初、この停留所は常盤橋と呼ばれていた。後述の室町線が常盤橋まで延伸された1914年に日本銀行前に改称され、さらに本石町一丁目となり、1952年に日本銀行前に復称されている。

 日本銀行本店は1890年に着工し、6年の歳月をかけて1896年に竣工した日本人が初めて造営した洋風建造物だ。設計は建築家の巨匠・辰野金吾で、ベルギーの国立銀行を参考にしてデザインされ、東京駅とともに辰野金吾の代表作といえる傑作だ。堅牢な構造は1923年に発生した関東大震災にも耐えたが、地震後の火災で罹災して建物の一部や内部を焼失している。後年復元され、1974年には国の重要文化財に指定されている。
 

築後125年を経た重要文化財「日本銀行本店(旧館)」の近景。林立する高層ビル群に取り囲まれて窮屈そうだ。(撮影/諸河久:2021年2月5日)
築後125年を経た重要文化財「日本銀行本店(旧館)」の近景。林立する高層ビル群に取り囲まれて窮屈そうだ。(撮影/諸河久:2021年2月5日)

 次のカットが撮影から54年が経過した日本銀行前の近景。日本銀行本店(旧本館)の周囲には超高層の建造物が林立して、スカイラインが著しく阻害されている昨今だ。手前の外堀通りには、はなはだ無粋な道路閉鎖ガードレールが設置されていた。これは東日本大震災で被害を受けた旧常盤橋の復旧工事用の処置で、本年4月に工事終了の予定だ。
 

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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日本橋川に架かる三本の常盤橋