約7年間のアシスタントを経て独立後は、沖縄、広島、長崎などの戦跡を写すようになり、02年に写真展「SAKURA-なんでもない幸せの行方」を開催した。
「先生の影響もあって、『戦争と平和』を写真で表現して残していこうと思いまして。撮影スタイルはいまとほとんど変わらないんですが、日々生活している場所で戦争があった、そういう場所を撮影してきたんです」
戦跡だけでなく、空襲のあった全国各地を訪ねるようになり、そこに寄り添うように咲く桜を写してきた。
さらに、女子学徒隊など、沖縄戦の証言者や戦跡を撮影してまとめた「沖縄語」を発表。
「生活感ある桜と戦争の跡を撮るのと平行して、沖縄をずっと写してきたんです。震災の年までは」
カメラは出せなかった。いいこととは思わなかった
震災直後、大沼さんは被災地を撮る気にはまったくなれなかったという。
「仙台空港近くに住む友人に物資を届けたときもカメラを取り出せなかった」。理由をたずねると、「うーん」とうなった。
「あの惨状のなかでは、やっぱりカメラは出せない。申し訳ない、なのかな。罪悪感でしょうか。とにかく、出せなかったんですよ。いいこととは思わなかった。写真家である前に人間であれ、というか。仕事でしたら逆でしょうけれど」
写真を撮影することを意識し、自転車を漕いで海に向かったのは震災から2週間になろうとする3月24日だった。
「じっとしていられなかったんでしょうかね。使命感を持って行く、ということではなかったです。ただ、自分の目で、いま、見ておかなければいけない、と思ったんでしょうね。何があったのかを。ただ、もう精神的にどうしていいかわからなかったので、何をどう撮るとか、そういう感覚ではなかったです」
話す言葉が途切れ途切れになり、いつの間にか涙声に変わっている。
その後、大沼さんは桜を撮るために九州へと旅立った。
「毎年行っていたように。普通に、っていうか。行ったんです。ちょっと、やっていることがおかしいんですよ。ははは。いま、何をすべきか、ということがわかっちゃいない、というかね」
東京の人と同じように、外から入ったから撮れた
大沼さんは例年と同様に九州から桜取材をスタート。桜前線を追って本州を北上していった。
「東北に入ったのは4月21日。白河小峰城、東北の境ですね」
日没間近に城に着くと、崩れた石垣が目に飛び込んできた。しかし、その石垣の上には満開の桜が、傷つきながらも力強く咲いていた。
「そのとき、『東北が大変なときに東北から離れて、何をやっているんだ』と、桜に言われたように感じたんです。この状況の桜を撮るべきではないか、と思い直して、沿岸部に向かったんです。そこの桜を写真で残そうと思ってからは何を言われてもいいと、腹が座ったというか」