「当時の鬱々とした気分は今でも鮮やかに思い出すことができる。普通に生きていても、子どもにはあらがえない壁や不条理が、とつぜん立ち現れる。突き詰めると、それは精神的な暴力だと感じていました」

 離婚で父の存在が家庭になくなると、その変化に気持ちがついていかなかった。両親の離婚を、友だちに話すことができなかった。映画と出会ったのは、このころだ。

 ■上京して「映像塾」へ入塾、深作欣二などの謦咳に接す

 新しい自宅から徒歩5分ほどの幹線道路沿いでは、母方の祖父母と叔母が食堂を営んでいた。そのすぐ前にはバス停があり、常に人が集まっていた。そのせいだろう、映画会社がポスターを食堂に貼らせてほしいと頼んできて、そのお礼に映画の上映券を毎月くれた。小学生だった白石はその券で祖父母や叔母に連れられて、もっぱらメジャーな洋画を観るようになる。それが映画にのめりこんでいくきっかけになった。

 レンタルビデオ店が一世を風靡していたこの時代、中学生のときは日活ロマンポルノにはまった。高校に上がるまで洋画、邦画問わず、店にある作品を観まくった。それにあきたらず映画専門誌を読むようにもなり、とくに撮影現場のレポートにひきつけられた。

「映画には俳優だけでなく、作り手がいるという当然のことを認識するようになった。撮影現場訪問記がとくに好きだった。故・相米慎二監督の撮影現場で助監督が右往左往している様子がレポートされていたりして、“ああ、お祭りをやっているんだな、楽しそうだな”という感覚になり、映画の作り手として自分もそこに加わりたいと強く思うようになった。他の道へ進むという選択肢はまったく思い浮かばなかったんです」

 高校を卒業すると、札幌の映像技術系の専門学校に通ったが、カメラマン養成を主軸に置いた学校だったせいか、映画論を闘わせるような相手は得られなかった。卒業後に「そんなに映画が好きなら」と母親が背中を押してくれたこともあり、北海道を出た。

 最初は埼玉県所沢市にアパートを借りて、ファミレスなどでアルバイトをしながら、95年、映画監督の中村幻児(72)が主宰していた映像クリエーター養成機関「映像塾」に入った。学費が安かったことが選んだ理由の一つだったが、映画表現を志す者の梁山泊(りょうざんぱく)のような空間で、20代から40代までの人が全国から幅広く集まり、のちにともに仕事をする脚本家などとも知り合った。

 白石はこの頃から小林正樹らが監督した古い日本映画をはじめ、「ATG」(日本アート・シアター・ギルド)や「シネフィル」系の、インディペンデントで前衛的な作品も観るようになった。映像塾では映画制作のイロハを学び、深作欣二や若松孝二など錚々(そうそう)たる講師陣が映画論をぶった。彼らの謦咳に接し、白石は「映画とは社会の理不尽を描くものだ」という考え方を固めていくようになる。

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