そんなある日、ふと見たテレビ番組で大好きな矢沢永吉が「最近のお気に入り」を答えていた。矢沢はその質問にイタリアのファッションブランドの「ベルサーチ」、映画「デイライト」、そして「ラーメン」の3つを挙げていた。
「当時、自分が住んでいた横浜は、横浜家系ラーメンの店ばかりでした。でも、永ちゃんが好きだというラーメンの写真は家系じゃなかったんです。気になって横浜のラーメン店を調べてみると、3分の2が横浜家系でしたが、その中で『くじら軒』の醤油ラーメンの写真が目に飛び込んできたんです」(平賀さん)
矢沢が好きな店が「くじら軒」であるかは定かではなかったが、とにかくそのラーメンを食べてみようと、店を訪れる。開店前にも関わらず50人以上の行列。少しすると、白衣がビシッと決まった店主が出てきて頭を下げ、店がオープンした。そこで食べたラーメンは平賀さんがこれまで食べた中で一番といっていいほど美味しいラーメンだった。
「こんなに旨いラーメンが世の中にあるのかと驚きました。それと同時に『ラーメン屋になろう!』と心は決まりました」(平賀さん)
やるなら「くじら軒」に弟子入りしたい。そう思った平賀さんはすぐに店に電話をし、弟子入りを志願。弟子はとっていないと言われたが、会って話だけでも聞いてほしいと懇願し、日曜の店の休憩時間に店主・田村満儀さんのもとに訪れる。結局弟子入りすることはできなかったが、田村さんは平賀さんにこう言った。
「僕も独学でラーメン屋を始めたんだ。あなたにもできますよ」
修行して独立するか、フランチャイズ経営が当たり前だと思っていた平賀さんには、カルチャーショックな一言だった。
自己流でもいいなら自分で頑張ってみようと、本を買って家でラーメンを作り始める。友人に振る舞うとこれが好評で、「くじら軒」に麺を卸している大橋製麺の担当者にも食べてもらい、太鼓判をもらった。
自信をつけた平賀さんは00年3月に「キッチンジロー」を退職し、4月から物件探しを始めた。毎日探したものの、しっくりくる物件が出てこない。諦めかけていたある日、幼少時代に年越しラーメンを振舞ってくれていた亡き祖母が夢に出てきて、「頑張れ」と言ってくれた。その翌日、自宅の目の前にある鉄板焼き店が空き物件として売り出されたのだ。平賀さんは即決した。
こうして同年7月、「流星軒」はオープンした。店名は矢沢永吉の名曲「流星」からとった。「くじら軒」を目標にしたあっさりとした醤油ラーメンだが、牛テールを入れるなどオリジナリティも追求した。いつ行列ができてもいいように、初日から外待ち用の椅子を用意していた。
昼、夜と営業し、片付けが終わると23時。自宅でラーメンを作っているのとは全く感覚が違った。閉店後に明日のスープやチャーシューを仕込まなくてはならないのかと思うと、途方に暮れた。でもとにかくやるしかなかった。