
■反対する両親を説得 最愛の父が病で亡くなる
「チーちゃん、葉タバコの選別を手伝って」「チーちゃん、落花生に水やってよ」。母の言いつけを小学生の千代子はせっせとこなす。鹿児島県は大隅半島の東端、農家の2男2女の次女に生まれた千代子にとって家の手伝いは日課だった。父は千代子が物心つく前に網膜剥離を患って失明していた。いまの医療なら間違いなく治せるが、時代が悪かった。お父さんっ子の千代子は父の手を引いて歩くのが好きだった。大学に進んで教員になりたかったが、経済的余裕がない。看護職に就いて学資をためてから進学しようと奮い立つ。鹿児島市内の看護学校に入って間もなく、マザー・テレサの映画を見た。インドのスラム街で貧困や病で死にゆく人のために働くマザーの姿に感動し、「いつかあんな仕事ができたらいいな」と憧れる。看護学校を卒業して福岡徳洲会病院に入った。
その頃、徳洲会は、創設者・徳田虎雄の「生命だけは平等だ」「24時間365日、年中無休、どんな患者も受け入れる」という理念を掲げ、医療過疎地に進出していた。藤田は内科病棟に配属される。入職から3年後、小柄な壮年医師が病院へ講演にきた。中村だった。「イスラム教の国、パキスタンでは、ハンセン病の女性は相手が医師でも男には肌を見せません。問診だけなので手遅れになる。ハンセン病は特効薬もあり、感染力は弱い。完治します。でも早期発見、早期治療ができず、末梢(まっしょう)神経が侵されて知覚麻痺(まひ)して足が深く傷ついてしまいます。日常生活に支障をきたす。機能再建の手術が必要です。女性の患者さんも看護婦さんには肌を見せます。誰か手伝ってくれませんか」。藤田は「マザー・テレサの仕事に近い」と直感し、1990年3月、下見を兼ねてペシャワールに向かう。

強烈な日差しと喧騒(けんそう)、礼拝を呼びかける「アザーン」の声が響き渡る街で、ハンセン病棟の門をくぐった。ヒジャブで顔を覆った女性患者が目を血走らせて藤田に群がる。同性の安心感で「傷をみて」「消毒をして」「汚れたシーツを替えてよ」と口々に叫ぶ。身振りでわかった。悪臭がむっと鼻をつく。手の指が欠けてジャンケンのグーのように拘縮した人もいる。その手で家事をこなし、家族の世話をしてきたのかと思うと愛おしくて胸がつまった。藤田はいったん帰国し、秋からの本格赴任の準備にとりかかる。もう大学進学の望みは消え、看護に天職を見いだそうとした。
(文中敬称略)
(文・山岡淳一郎)
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