これから写真は記録性と訴求性だけでは生き残れない
小松さんは83年度新日本歌人協会新人賞を受賞した直後に歌の世界から身を引き、写真の世界に信念を持って携わってきた。今回収めた文章は84年から最近までの膨大な著作や記事のなかから選び出したものだ。そこには「先生方、先輩、そして仲間たちが残した珠玉の言葉が綺羅星のごとくあった。自分だけのものにしておくはあまりにももったいない」。その気持ちが、本書をつくり上げる原動力となった。
その一方で、いまの写真界に対する危機感が文章のはしばしからにじみ出る。
「写真というのは、まだ生まれてから180年ほどしかたっていない新しい芸術でしょう。文学や音楽に比べればはるかに新しい表現手段なのにもかかわらず、これからの社会のなかで廃れていってしまうというか、忘れられていってしまうんじゃないか、という不安があった」
小松さんは両手でカメラを構えるしぐさをした。そして「写真って、これだけでしょう」と言って、シャッターを切るように人さし指を動かした。
「1/250秒とかね、写真って、ほんの一瞬だけが自分で、ほとんど他人まかせみたいな部分がありますから、圧倒的に手づくりじゃないわけですよ」
例えば、俳句は推敲に推敲を重ねて五・七・五の17音をつくり上げていく。絵画や彫刻もそうだ。
「これから写真は記録性と訴求性だけでは生き残れないでしょう。もっと人の内面性、感情とか機微、心のひだみたいなものをプラスアルファしていかないと、なかなか人を感動させることはできない。もともと写真はそういう部分がほかの芸術と比べて弱いですから。まあ、難しいんですけどね。というか、相当難しい……」
ユージン・スミスの作品を見ると、詩的なものを感じることが多いと言う。その一枚に、母に抱かれて入浴する水俣病の娘を写した「入浴する智子と母」を挙げた。
「あの作品には何もいらない。言葉もいらない。普遍的なものがにじみ出ているから」
未来の写真家を志す人たちへのささやかな伝語となってほしい
実をいうと、本書をつくるきっかけをたずねた際、最初に返ってきたのは「新型コロナで仕事がなくてヒマだったから」。
あとがきは、こう結んでいる。
<皮肉なもので世界中を震撼させているコロナ禍のなかで生まれた本書は、果たして未来の写真家を志す人たちへのささやかな伝語となり得るだろうか……>
そうなることを切に願っている。(文・アサヒカメラ 米倉昭仁)