現研に入った動機については「写真家の土門拳、田村茂、藤本四八、丹野章、評論家の田中雅夫、伊藤逸平、伊藤知己先生たちが中心になって現研ができるということを知って、そこに何かエネルギッシュで創造的なものを感じた」と、書いている。
そこから自然と編み進んでいった人とのつながりが本書のベースとなったのだろう。例えば、当時の講師の一人に、後に風景写真家となる竹内敏信がいた。
「竹さんはあのころまだ若くてね、愛知県・岡崎から夜行列車で通っていた。泊るところがないから、いつも生徒の家を泊まり歩いていた。洗面器でラーメンをつくって、みんなでよく囲んで食べたよ。竹さんからすればいまさらそんなことは書いてほしくないかもしれない。偉い人になっちゃったからね。でも今回、『載せます』って、はがきを出したら何も言ってこなかったから、昔の対談をそのまま載せました」
柿の種を行商しながら水中写真を志した中村征夫
同じ自然写真の分野では、若いころの中村征夫の話が胸を打つ。
「中村さんは上野・御徒町で柿の種を仕入れて、袋詰めしてね、それをバイクで神奈川の方まで売り歩いていたんだよ。その前は酒屋の御用聞きで一軒一軒歩いてさ。いまの中村さんの姿からは想像できないような苦労をしている」
中村青年の仕事ぶりにほだされた酒屋のおばちゃんは「この店をあんたに譲りたいんだけども」と相談する。しかし中村は、「僕、やりたい仕事、方向が見みつかったので、このままここにいてもおばちゃんに迷惑をかけるから」と言って店をやめるのだ。そして、行商をしながら水中写真に打ち込むのだ。
「そういうことって、あまり知られていないから」
次の世代の若い写真家にどうしても伝えておきたいと、小松さんは言う。
「それくらい気合を入れて撮れ、っていうこと。苦労しないというか、金になる頼まれ仕事しかしないやつって、結局、何にも残らないから……。田沼武能さんなんか、40代の最後、自分の家を担保に入れて借金して南米・アンデスをまわった。帰ってきたら車を売り飛ばして現像代にあてた。そうやって出した写真集『アンデス讃歌』(84年、岩波書店)はすごくいい仕事で、田沼さんの代表作になった」
「渡辺義雄さんは53年に初めて伊勢神宮(の式年遷宮)を撮影したとき、『あいつは特権階級で、コネを持っていたから撮れた』って、相当叩かれたけど、とんでもない、と。もちろん、疎開先でたまたま大宮司と知り合ったこともあるけれど、それでもダメなところは何回も何回も足を運んで、自分の理屈が通っただけだから、と。俺は越後人だから義理がたいし、約束は守るから2回目(73年)は寛大なことで撮影できた、と言っている」