その立役者の一人がオカダだった。

 1987年、愛知県安城市で会社員の父・竜弥(63)、看護師の母・富子(59)の次男として生まれた。5歳上の兄が1人。両親共に忙しかったせいか、手のかからない子どもだった。そんな素直な子が、小学校5年の夏、長崎県の五島列島に転校したいと言い出し、両親を慌てさせた。母が言う。

「五島列島には私の実家があり、毎年夏休みに帰省していたのですが、自然の遊びが豊かな五島列島で暮らしたいと。10歳の子どもを手放すのはつらかったけど、言い出したら聞かない」

 中学は安城市に戻り、野球部や陸上部で活躍。陸上100メートルで11秒68を記録し陸上強豪高校から勧誘も受けた。だがこの頃、オカダ少年の心を捉えたのは、兄が借りてきたプロレスのDVD。特に、技が多彩でスピード感のあるメキシコプロレスにすっかり魅了され、プロレスラーになると決意。父は息子を何度も諭した。

「高校だけは行ってくれと。でも、小5で五島列島に一人で行ったように、一度決めたら折れない」

 中学卒業と同時に神戸市のプロレス養成学校「闘龍門」に入門。あまりの厳しい練習に30人いた同期が1カ月で8人に減った。

「他の練習生は大卒か高卒で入門しているのである程度体は出来ている。でも僕はまだ少年体形。反吐が出るほどつらかったけど自分で決めた道なので、後戻りはできなかった」

■22歳で米国へ武者修行、「レインメーカー」を考案

 負けじ魂と天性の運動神経がオカダを一挙に飛躍させた。半年後に念願のメキシコに渡り、早くも16歳でプロデビュー。車で移動しながら1日3試合こなすこともあったという。

「メキシコではプロレスが国技みたいなものなので、結婚式やお祭りには必ず呼ばれる。メキシコにいた3年半はプロレス漬けの毎日でしたけど、僕が今あまり怪我をしないのは、メキシコ時代に徹底して受け身の練習をしたことが大きいですね」

 19歳でメキシコのプロレスの聖地と言われる「アレナ・メヒコ」での試合に出場。晴れ舞台を踏み、これ以上メキシコでやることはないと考え帰国。新日本プロレスの門をたたいた。メキシコでの実績を消し研修生からスタートし、22歳で米国のプロレス団体「TNA」へ武者修行に出る。

 米国では、魅せるプロレスをすることを徹底して求められた。最初に言われたのが「お前はどんなキャラクターで売るのか」「お前はリングでお客に何を伝えたいのか」だった。

「初めは意味が分からなかった。でも、リング上よりテレビカメラの前で試合をさせられることが多く、セルフプロデュースの大事さを知った」

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