今日は大晦日。大歳(おおどし)、除日(じょじつ)ともいい、大三十日と書いて「おおみそか」と読みます。一年が終わる特別な日。時間の流れは変わりませんが、過ぎ行く年へ残してしまった思いや新しい年への期待が入り交じり、心の中でこの日は特別な重みを持ちます。

懐かしい人との再会、休息への旅立ち、一年の締めくくりの過ごし方はそれぞれですが、今から100年少し前の明治時代は、どのような大晦日を過ごしていたのでしょうか? ちょっと興味が湧きませんか? 小説家や俳人といわれた人たちの大晦日を、作品や書き残されたものをたよりに、紐解いてみたいと思います。どうぞおつき合いください。

長谷寺観音万燈会
長谷寺観音万燈会

五千円札の顔となった「樋口一葉」が描く大晦日

樋口一葉の作品のひとつ『大つごもり』も大晦日のことです。商家にとっては一年のお金を締める日でもあります。

18歳のお峯は辛抱を重ねて勤める奉公人。働き者のお峯は裕福な山村家で、主人やご新造から信頼を得て日々お勤めに励んでいます。そんな時、病のため商売ができなくなった叔父が高利貸しから借りた10円の返済に苦しんでいるのを知り、ご恩返しの時と返済を延ばして貰うための利子2円を、大晦日までに工面すると約束します。これまでの働きを胸にお峯は意を決して奉公先のご新造に2円の借金を申し出ますが、思いは伝わらず断られてしまいます。切羽詰まったお峯はついに人目のない機会をとらえ、手文庫から2円を抜き取ります。大晦日も押し迫り、お店のお金をすべて数える大勘定の時、自分の罪に自殺を覚悟したお峯の前で開けられた手文庫の中からは、お金は消えており、かわりに山村家の放蕩息子の置き手紙が一枚。お峯の窮状は救われます。天からの恵みか、放蕩息子が密かにお峯の罪を被ってくれたのか、は謎のまま。

読み終わりお峯の無事にホッとしますが、実は借金が返せたわけではなく、ほんの一時しのぎです。それでも無事に正月を迎えられる喜びの大きさを、この物語は描いているのです。貧しい生まれの人たちが背負っていかなければならない人生に一葉自身が重なります。一葉22歳、明治27(1894)年の作品です。

五千円札に描かれる一葉は、細面でキリッと結んだ口、目は真っ直ぐ前を見つめて凜とした佇まいです。父と兄を失った一葉は、戸主として母と妹の生活を支えていくために、職業作家として身を立てる決意をします。貧しさの中でも学び続けることで、プライドを築き上げた一葉の晴れ姿に見えませんか。

今の時代でも「借りは年を越すな」という言葉を耳にすることがあります。気にかかることをすっきりさせておけば、迎える新しい年への夢や希望もぐっと近くなりますね。

参考:

岩淵宏子・長谷川啓監修『<新編>日本女性文学全集 2』菁柿堂

真鍋和子著『樋口一葉 -近代日本の女性職業作家-』講談社

エネルギーのかたまりのような「正岡子規」の大晦日は?

「漱石が来て虚子が来て大三十日」

この句ができた明治28(1895)年、正岡子規は前年に始まった日清戦争に日本新聞の記者として従軍します。4月に広島から遼東半島に上陸しますが、すぐに下関で講和条約の調印が行われたため、5月には大連より帰国の途につきます。その船上で喀血し、神戸病院に入院。高浜虚子が京都から看護にやってきます。その後小康を得て、7月に須磨保養院へ送るまで虚子は付き添います。8月には松山に帰り、松山中学校で教師をしていた夏目漱石の寓居-愚陀仏庵-に入り、今度は漱石に見守られながら暮らします。

子規は訪れる俳人とともに句作でおおいに盛り上がっていたようです。ここにも虚子が訪ねています。10月には東京へもどりますが、途中の奈良で詠んだのが、あの有名な「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」です。

喀血し重体に陥りながらも、新聞へ記事を書き、療養中も「俳諧大要」を連載するなど、精力的に働いていた子規でした。

こうして子規の一年を振り返りつつ、改めてこの句を詠むと、一年の最後の日に子規が持った感慨が「大三十日」のひと言に溢れていると感じます。お互い勝手を言いあう間柄、残してしまったちょっとした心のキズも流してしまえる大きな心を、素直に表せた子規の大晦日だったのでしょう。

グルメで大食漢だった子規の年越し蕎麦はどんなだったのでしょう?
グルメで大食漢だった子規の年越し蕎麦はどんなだったのでしょう?

逃げ出して温泉旅行を楽しんだ?「夏目漱石」の大晦日

夏目漱石から受け取った手紙を大切にしてきた高浜虚子は子規と同郷。明治31(1898)年1月6日の漱石からの手紙には「肥後小天(おあま)という温泉に入いって年を越しました」とあり、大晦日の句がありました。

「うき除夜を壁に向へば影法師」

漱石は大晦日をものごとが思うようにならない、煩わしい日になったなぁと感じているのでしょう。壁に見える影法師は何なのでしょうか? 小天温泉への旅は、前年の正月新婚の鏡子と迎えた正月が、お節づくりと押しかける学生で大わらわな思いをしたことから、友人で同僚の山川信次郎と二人さっさと温泉へ逃げ出してきた、というのが実情のようです。後の代表作『草枕』のモチーフとなる漱石にとっては大変意味のある旅でした。

じつは虚子、この手紙にしたためられていた漱石の俳句を「どれも面白くない」ときっぱり記しています。親しいといえども、虚子は漱石の本での生活を全く知らなかったので、「漱石の俳句がつまらないのは何故だろう」と大変不思議がりました。

逃げ出しては来たものの、何かわだかまるものがあったゆえに、俳句もふるわなかったのでしょうか。癇癪持ちの漱石らしい大晦日の過ごし方に、周囲の人たちは面食らっていたかもしれませんね。

昭和まで生きた「高浜虚子」が過ごした大晦日

子規、漱石より7歳若い高浜虚子は明治、大正、昭和の三代にわたり俳人として活躍しました。子規が提唱した写生する俳句を「客観写生」へと高め、さらに「花鳥諷詠」を提唱。これが現代俳句の土台となりました。子規が中心となり活動が始まった『ホトトギス』を受け継ぎ、現在も虚子の曾孫へとその流れは続いています。

高浜虚子はどんな大晦日を過ごしたのでしょう、と句集をめくっていたら「昭和17年12月31日 除夜詣。浅草観音」と添え書きのある句がありました。

「暮れてゆく枯木の幹の重なりて」

昭和17(1942)年といえば第二次世界大戦のただ中、6月にはミッドウェー海戦で戦局が大きく変わった年でした。虚子68歳、年の瀬おし迫ったこの日の浅草は、きっと大勢の人で賑わっていたことでしょう。85歳まで生きた虚子にとって、この頃はまだ壮年のエネルギーが溢れていた時。ここで詠んだ句には、思うようにならない時代の人々の心が、この日の風景とともに虚子の言葉で写し撮られていると感じます。

添え書きがなければ大晦日の句とはわかりません。数時間後に開ける新年への喜びが真っ直ぐには湧いてこない、厳しさのある大晦日が確かにあったことも、私たちは忘れてはならないですね。

明治に生まれ文学に生きた人たちの大晦日を紐解いてきました。どの大晦日にも、それぞれに抱えた葛藤が見えてきます。今日の大晦日をあなたはどのように過ごされていますか? もう一度過去を振りかえるもよし、新たな希望への思いを確認するもよし。

新しい年が皆さまにとって良き時代となりますようにお祈りいたします。