自著『友情』について語る武者小路実篤。1962年
自著『友情』について語る武者小路実篤。1962年
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 日本には文豪と呼ばれる作家がいた。文章や生きざまで読者を魅了し、社会に大きな影響を与えた。だが、彼らも一人の人間である。どんな性格だったのか。どのような生活を送っていたのか。子孫に話を聞き、“素顔”をシリーズで紹介していく。第1回は武者小路実篤。

【画像】「この道」1967年 紙本墨画淡彩がこちら

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「聞かれると答えに困ることがいくつかあるのですが、『実篤はどんな人でしたか?』という質問が一番困りますね。というのも、私にとっては普通のおじいちゃんでしたから」

 そう話すのは、武者小路実篤の孫にあたる武者小路知行さんだ。

 知行さんは現在、調布市武者小路実篤記念館の理事長を務めている。

 武者小路の名前は、多くの人が「むしゃのこうじ」と学校で習っただろう。だが、「の」は入らないという。

「祖父が海外に行った際、使っていた名刺はMushakoji。no(の)は入っていませんでした」(知行さん)

 知行さんは、三鷹(東京)に実篤が住んでいたときは一緒に暮らしていたという。

「散歩がてら、山本有三文庫(現三鷹市山本有三記念館)や彫刻家の北村西望のアトリエに連れていってもらったことがありました。文学や美術に身近に触れていたのが、普通の家庭の生活とは違っていたかもしれませんね」

 実篤が三鷹から仙川(東京)に転居した後も、知行さんは週に1、2度、祖父のもとを訪ねていたそうだ。

「私が小さいときにお小遣いをねだったことがあるんです。少し欲張って100円ちょうだいって言ったんです。するとなんのためらいもなく、財布から100円を出してくれたのです」

 当時の100円といえばかなりの高額。概算で現在の2万円くらいである。

「仮に私が千円ちょうだいと言って財布にあればくれたと思うんです。社会的常識にやや欠けたところがあったのかもしれませんね」

 知行さんには楽しい思い出がある。それは実篤が呼びかけて“理想郷”を目指してつくった「新しき村」への旅行だ。

「埼玉県毛呂山町にある“新しき村”のお祭りに行くのが楽しみでしたね。車1台に実篤に運転手、加えて孫が5、6人ぎゅーぎゅー詰めで乗って行きました」

 定員オーバーで時々警官に止められたこともあるという。

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