父方の曽祖父は家族9人一緒に五島・久賀島の家牢に入れられた。「五島崩れ」として知られる明治初期の凄まじい迫害だった。わずか20平方メートルの所に200人が詰め込まれ、「人間の密集地獄」となった。「久賀島カトリック信徒囚獄の碑」によると、身動きすることも困難で、人の体にせり上げられて足さえ地に着かない者もいた。足が腫れあがった。芋の小切れを朝夕1個ずつ。飢えと苦痛で死者が続出。遺体は密集地獄に踏みつぶされて腐敗するも5日間も放置され、蛆が湧いて人体に這い上がり、その上放尿排便のため、不潔さと臭気は想像を絶した。在牢8カ月。殉教者は42人に上り、曽祖父の妹3人が殉教した。

■カトリック系の中学入学、船で8時間かけ長崎へ

 父方の祖父、前田峯太郎は、小さな離島の大工で仏教徒だったが、仕事で通ったカトリックの家で見聞した生活態度や行いに触れ、感銘を受けた。カトリックに改宗しようとしたものの、家族や島の住民から猛反対され、暴力も受けた。それでも決心は揺るがなかった。これが1901年の「パリ外国宣教会 年次報告」としてローマに報告されていた。この逸話は、父方の迫害の体験とともに前田家に脈々と伝えられてきた。また母方の曽祖父も平戸の牢で責め苦を受けている。こうした先祖からの信仰を受け継ぐことを「信仰伝達」と言い、その大切さを前田は講演でも語る。

「昔から親の苦労した話や、先祖の話を聞くのは非常に好きでした」

 朝起きて祈り、食前食後に祈り、夜寝る前に祈る。教会の前では深々と礼をする。そうしないと親に叱られた。

「祈りが生活そのもの。だから、なんとなくいつも神様の存在を感じていましたね」

 生まれ育った上五島は、江戸時代、大村藩の人口増に伴う人減らし政策と、キリシタン弾圧からの逃避のため、同藩の外海地区から、手漕ぎの船に鍋釜を積んで移住してきた人たちによって開かれた。「五島五島へ みな行きたがる 夢に見る五島は天国 行ってみて地獄」(万葉)。海からすぐに山となるような狭隘(きょうあい)な土地。生活の基盤作りから始めなければならなかった。実家のある仲知地区は仲間意識が強く、仲知という地区名自体、「キリストを知る仲間」という意味である。郵便配達が郵便物を峠にまとめて置いておくと、住民が自主的に配達していた。昭和天皇に戦争責任があると議会で答弁、右翼に襲撃された元長崎市長の本島等(もとしま・ひとし)(故人)も仲知の出身。前田の母親とは幼馴染みだった。

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