2020年の五輪に向けて、東京は変化を続けている。前回の東京五輪が開かれた1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は趣向を変えて、筆者が体験した都電での「通学時代」を振り返る。
【銀座や赤坂見附は現在とどれだけ変わった!? 当時の貴重な写真はこちら】
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都電での通学は、念願だった。
暗いトンネルを走り抜け、何も見えない地下鉄と違い、当時、高度経済成長期の東京において、日々めまぐるしく変わる景色を車窓から眺められたのだ。振り返れば、とにかく楽しい時代だった。
筆者が幼少時から住居している中央区新富町は、都電築地線(日比谷公園~茅場町)の沿線で、東京市街鉄道(街鉄)が1904年5月に敷設した名門路線だった。自宅の一筋東側が都電の走る電車道だったので、「都電」は身近な鉄道として親しんでいた。この築地線には9系統(渋谷駅前~浜町中ノ橋)と36系統(錦糸町駅前~築地)の二系統が運転されていた。
■高校進学を期に、待望の都電通学が始まる。
都電による通学が決まったのは1963年3月だった。赤坂に所在した「日本大学第三高等学校(現在は町田市に移転)」に進学が決まり、4月から新富町~赤坂見附を都電通学することになった。乗車するのは前述の9系統で、前年に登場した7500型新車に乗って登下校するのは、都電ファンの冥利に尽きることだった。
入学時、9系統は新富町~築地~銀座四丁目~桜田門~三宅坂~赤坂見附の区間を走っていた。三原橋から日比谷公園にかけては、日本一の繁華街・銀座を東西に横断することになり、通学の車窓から「東劇」「歌舞伎座」「服部時計塔」「数寄屋橋」「日劇」など、いわゆる「銀ブラ」も楽しめた。日比谷公園から三宅坂までは皇居の内堀に沿った景勝地で、車窓から四季の移ろいを実感できた。
冒頭の写真は、議事堂前(1965年に廃止)~三宅坂で11系統月島新佃島行きと行き交う9系統渋谷駅前行き都電。車窓からは江戸城内堀と石垣が望める。ちなみに、三宅坂の地名は、近隣に三宅備前守の屋敷があったことに起因する。
三宅坂を左折すると青山線に線名が変わり、平河町二丁目を頂点とする坂道を上下して、下車する赤坂見附に到着する。定期乗車券は、ここから3系統品川駅前行きに乗り換えて隣接の山王下まで乗車できたが、運転間隔が疎らな3系統はあてにならず、電車が来た時だけ乗車していた。