■東京五輪工事による迂回運転
「1964年東京オリンピック」関連の高速道路建設進捗のため、前述の青山線・三宅坂~青山一丁目が1963年10月1日から廃止され、9系統は迂回運転することになった。都電通学が始まって半年後のことで、迂回コースは桜田門~虎ノ門~溜池~六本木~青山一丁目になり、学校の近接停留所は霞町線の福吉町に変更された。
そして、ある変化が訪れる。一緒に都電通学していた同窓生の大半は地下鉄通学に変更したのだ。そのため、朝の都電に乗ってくる顔ぶれがガラリと変わったのを鮮明に記憶している。
筆者は1966年3月の卒業時まで、この通学方法を堅持した。冒頭でも触れたように、発着時間は正確だが戸外の情報が全くない地下鉄と違って、都電は車窓からの風情を楽しんだり、他系統の動静を観察できたりした。都電通学は廉価ながらも、魅力あふれるものだったのだ。
■都電の運転台右脇は格好の撮影地
通学時にたまたまカメラを携行していると、乗車する都電の運転台右脇から、すれ違う都電のスナップショットが撮れた。ことに夏場の6000型の前面窓は、いっぱいに開けられるため、窓ガラス越しのストレスを感じることなく、気持ちの良い撮影ができた。
別カットは運転台から撮影の一例だ。東京オリンピック開催まであと5日と迫った日に、9系統浜町中ノ橋行き6000型の運転台から晴海通りですれ違う9系統渋谷駅前行き7000型を狙った。三原橋停留所を発車して昭和通りを横切るシーンで、画面左側には「歌舞伎座」、画面中央奥の雪印の看板下には「東劇」が所在している。
■都電通学のエピソード
前述以外にも、都電通学の魅力は色々ある。なかでも、朝の通学時には頻繁に都電がやってくるので、車種を選んで乗車できたことはとにかく楽しかった。乗り心地で勝る6000型200番台や7000型、7500型が続行しているのが見えると、眼前で乗車扱いをしているD10型台車を履いた6000型をパスするのは日常のことだった。もっとも、夏場の7000型は扇風機が付いているものの、前面窓からの通風量が少ないので蒸し暑く、前窓から涼風がいっぱい入る6000型なら、何号が来ても乗ってしまったこともあった。
乗車時に運転台の後ろに立って運転士の所作を観察していると、運転士の技量、性格によって、その走りっぷりに差が出る。交通信号の切れ目になると、無理せずに停車してしまう人と、逆にノッチを上げて通過してしまう人の差があった。また、軌道敷き内に自動車が割り込むと、アグレッシブに警笛で威嚇する人もいれば、仕方なさそうに大人しくしている人もいた。せっかちな気性の筆者は、アグレッシブな運転士に共感を憶えたものだ。