週刊朝日ムック『歴史道Vol.6』では、「雄藩最強ランキング」をはじめ、幕末を大特集。剣と誠を貫き、滅びゆく幕府に殉じた新選組。時には「壬生浪(みぶろう)」と蔑まれながらも、恐れられたその実力とはいかなるものだったのか。近藤勇と土方歳三が築き上げた鉄の組織を解き明かす!
* * *
■不逞浪士から京を守る! 新選組の誕生と組織の拡大
文久三年(1863)二月二十三日、250余名からなる浪士組が、江戸から中仙道を経て京都に入った。当時、国政の最重要課題でもある攘夷を推進させるため、朝廷内の攘夷派の策動により、将軍徳川家茂(いえもち)の上洛が急遽、決まった。三代家光以来、二百年ぶりとなる徳川将軍の上洛である。
巻き起こる天誅活動により、当時、京都の治安は悪化していた。そこで、将軍上洛に先がけ、関東の浪士や農民らからなる浪士組を編成、治安活動のため京都へ派遣するという計画が立案された。計画を提唱し、人脈を駆使して実現させたのは出羽の浪士・清河八郎だった。
江戸市谷で撃剣道場を営む近藤勇一門や、常陸水戸一帯で攘夷を唱え、国事活動を実践する芹沢鴨とその一派らも、この浪士組計画に賛同、一員として上洛し、居留地の壬生(みぶ)に腰を下ろした。
だが、到着したばかりの京都で、清河八郎は朝廷に上奏し、浪士組を攘夷活動のため、ただちに江戸へ帰還させるとの許諾を得てしまった。将軍警護を召集目的とした浪士組を、自身の国事活動の手駒として利用するのが、清河の真の狙いだったのである。
近藤勇らは清河に反発し、京都残留を選択する。近藤や同門の土方歳三らの出自は武蔵多摩である。土地の多くが天領であり、これを所轄する将軍家への忠誠心は強固な者たちでもあった。あくまでも浪士組の当初の目的を矜持として、京都に残留したのである。
芹沢鴨らもこれに同調、最終的に24名となった浪士組の脱退者らの身柄は、前年より京都守護を任じられていた会津藩に委ねられ、指揮下に置かれることとなった。以後、彼らが担うこととなったのが、京都の治安維持活動である。