新選組の隊列(イラスト/さとうただし)
新選組の隊列(イラスト/さとうただし)

 時に新選組は、巡察時間以降に担当地域に不審者が出没した際には、ただちに屯所へ通報するよう、町人へ回状を通達することもあった。テリトリー内の町人たちを治安活動の補完勢力とし、完璧な治安状況を造り出すため、腐心をしていたのである。
 
 新選組は慶応元年(1865)三月に屯所をそれまでの壬生から西本願寺へ移転させている。さらに江戸での隊士募集を実行し、この年五月には総隊士数150名の巨大組織となった。時に緊張が弛緩するような、にわかの大所帯化に対し、その頃、四カ条からなる厳粛な隊規も策定された。隊規違反者には総員の前で罪状を読み上げ、切腹が命じられた。
 
 隊規による引き締めの先に新選組が目指そうとしていたのが、長州征伐への出戦だった。長州軍は元治元年七月に御所周辺で起きた、京都守衛の会津や薩摩軍との戦闘で敗走、政局は御所へ敵対したとする長州征伐へと進行していた。
 
 念願だった攘夷戦争への参加も非現実的となる中、池田屋事件で圧倒的に威名を喧伝した新選組も、現実的な長州征討軍入りを渇望した。

 元治元年十二月と慶応元年九月に、副長の土方歳三はそれぞれ「行軍録」と題する進軍リストを作成し、武蔵の国許(くにもと)へ送っている。これらは土方による試案と見られ、いずれも長州へ出軍した際の新選組の進軍形態を、詳細に表記したものである。慶応元年の「行軍録」では、小隊を束ねる組頭隊士たちを「奉行」や「頭(かしら)」などとし、隊旗や、近藤や土方の家紋入りの旗指物(はたさしもの)なども図示した。
 
 この賑やかな行軍図は京都で市中巡察を行なう新選組の姿ではない。戦場で武威を示す組織そのものである。

 さらに土方は、元治元年の「行軍録」に「軍中法度」と題する、長州出軍中の厳しい戦陣訓をも策定して同送した。また、彼らは銃砲を用いた軍事調練も、壬生寺境内で適宜、実践していた。
 
 それほどまでに新選組は、長州征伐への参加を望んでいたのである。だが、京都の治安体制の中に、この極めて有能な組織の存在は欠かせないものだった。幕府上層部からの許諾は出されず、長州出戦は、攘夷戦争への参加とともに、夢想として消えることとなる。
 
 皮肉にもその実力と信頼度が、終始彼らを京都に縛り付けたのだった。 

(文/伊東成郎)

※週刊朝日ムック『歴史道Vol.6』より

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