浅海材木店の土蔵がランドマークだった中目黒終点で折り返しを待つ8系統築地行きの都電(撮影/諸河久:1965年3月30日)
浅海材木店の土蔵がランドマークだった中目黒終点で折り返しを待つ8系統築地行きの都電(撮影/諸河久:1965年3月30日)
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 2020年の五輪に向けて、東京は変化を続けている。前回の東京五輪が開かれた1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回はいつもと趣向を変えて、中目黒、赤羽、西荒川の「終点」で折り返す三つの路線を紹介する。

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 東京都電には玉川電気鉄道、旧西武鉄道、王子電気軌道、城東電気軌道の4社が敷設した路線を編入した経緯がある。戦時下の1942年に立法された「陸上交通事業調整法」により、王子電気軌道と城東電気軌道が東京市電に統合されている。同時に旧西武鉄道から新宿軌道線の運営管理を受託して、市電路線に編入している。

 いっぽう、玉川電気鉄道を合併した東京横浜電鉄(現・東急電鉄の前身)から経営委託されていた目黒・天現寺線を1948年に譲り受け、正式に都電路線となった。今回は他社から編入した3路線の終点である中目黒、赤羽、西荒川の都電風情を点描してみよう。

■白壁の土蔵があった中目黒終点

 都電中目黒線の出自は、玉川電気軌道が1927年に敷設した目黒線だ。1938年から渋谷駅ターミナルビル高架改築の影響で、天現寺で軌道を連絡していた東京市電から電車を借りて営業を継続。前述のとおり1948年に都電に編入されて、線名を中目黒線に改称した。都電8系統として、天現寺橋~赤羽橋~桜田門~築地の10180mを結んでいた。

 写真は中目黒線の終点、中目黒停留所で発車を待つ8系統築地行きの都電。この終点は中目黒線が敷設された駒沢通りと画面右側の山手通りが交差する交通の要衝で、ひっきりなしにやってくる自動車群を縫うように都電が走っており、安全地帯のない停留所からの乗降は、交通事故のリスクが高かったことと推察される。

 中目黒を発車した都電は、画面左側で目黒川に架かる皂樹橋(さいかちばし)を渡ると、進路を左に切って坂を登り、恵比寿に向かっていた。

 画面右側には、この終点のランドマークといえる白壁で総塗籠(そうぬりごめ)の土蔵があった。浅源屋号の浅海材木店の土蔵で、周囲の樹木とともに一幅の絵になった。画面左側には小さな乗務員詰所があり、冬季はやかんにお湯がたぎっていたという。中目黒終点に都電が通わなくなったのは、8系統が廃止された1967年12月10日だった。

両側6車線に拡幅された旧中目黒終点付近の駒沢通り。恵32系統用賀駅行き東急バスの背後の「シティホームズ中目黒ビル」が、白い土蔵が建っていた場所になる(撮影/諸河久:2019年9月28日)
両側6車線に拡幅された旧中目黒終点付近の駒沢通り。恵32系統用賀駅行き東急バスの背後の「シティホームズ中目黒ビル」が、白い土蔵が建っていた場所になる(撮影/諸河久:2019年9月28日)

 中目黒の風景は激変していた。駒沢通りは右折レーンも含んだ6車線に拡幅された。旧電車通り両側の民家はセットバックされる形で、全てが建て替えられた。昔のランドマークだった浅海材木店の土蔵は「中目黒クリニック」の看板を掲げた「シティホームズ中目黒」に変貌して、旧景ののどかな終点風景は消滅していた。

 画面奥に見える青色に塗装された「中目黒一丁目横断歩道橋」が1980年代から皂樹橋を渡った場所に設置されている。かつては目黒川の氾濫によるたび重なる水害に悩まされた地域だったが、河川改良と護岸工事が進捗して、水害の話は聞かなくなった。

■赤羽終点は岩槻街道の宿場

 岩槻街道の宿場町だった赤羽岩淵町に赤羽線が開業したのは1927年12月だった。赤羽線は王子電気軌道により、王子駅前から赤羽まで4100mが全線併用軌道で敷設された。昭和期に入ると沿線には化学会社や製紙会社など工場が相次いで進出し、工員輸送の交通機関として大いに繁盛していた。

 前述の陸上交通事業調整法により1942年に都電に編入され、当初38系統、戦後になって27系統として三ノ輪橋~王子駅前~赤羽の10166mを結んでいた。この赤羽線は王子駅前から旧岩槻街道に沿った北本通り(きたほんどおり)を走っていた。途中、西町(後年王子四丁目に改称)~神谷橋には、化学工場に直結する国鉄須賀貨物線との平面交差があった。貨物列車の通過時には踏切が閉まり、都電が通過待ちをする稀有なシーンが見られた。
 

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